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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(105)
「倭の五王」補論(8)


「倭の五王」とはだれか:真説編(7)

②高良玉垂命神―(2代)→朝日豊盛命神

 朝日豊盛命神とは例の「九躰皇子」の第二子である。「九躰皇子」伝説は筑前(竈土神社)・筑後各地やその周辺に多く伝えられている。この「九躰皇子」について、古田さんは独自の解釈を提出している。それは意外にも、「隋書俀国伝」の解読の中にあった。今までの解読事項を概観した上で、その新たな解読事項を読んでみよう。(青字は「隋書俀国伝」からの引用)

<1>

開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字は多利思北孤(たりしほこ),阿輩雞彌と號す。使を遣わして闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聽き、跏趺(かふ)して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと。」

(中略)

名太子為利歌彌多弗利。
(この一文の読みについては後ほど取り上げられる)。

大業三年、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門數十人、来って佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、云云」と。

 『「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤は、推古天皇や聖徳太子ではなく、「九州王朝の天子」である』ことはすでに私(たち)の知るところである。その論証の骨格は次のとおりである。

☆多利思北孤は男性であるが、推古天皇は女性である。

☆多利思北孤は“第一権力者(天子)”であるが、聖徳太子は“第二権力者(摂政)”である。

☆推古天皇や聖徳太子には「タリシホコ」という名称はない。

阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って禱祭を行う。

☆阿蘇山があるのは、言うも愚か、九州である。大和三山や三輪山の記事はない。また中国人には珍しい「内海」である瀬戸内海の風物も、一切記されていない。

<2>

名太子為利歌彌多弗利。

 この文の従来の読みは
「太子を名づけて利歌彌多弗利(リカミタフツリ)と為す。」
である。この読み方を古田さんは否とする。

 従来も太子の名とされたのは「リカミタフツリ」であるが、先頭と末尾が「リ」であるような名辞は、日本語にはない。

 「名太子為利歌弥多弗利」は
「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」
と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」(字地名)がある。

 俀国からの国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は“衆生利益”の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。

 すなわち、彼等(王と太子)は、「和風称号」(多利思北孤)と「一字名称」(利)とを交て用いている。「一字名称」は、当然「倭の五王」以来の伝統の継承である。

<3>

其の地勢は東高くして西下り、邪靡堆に都す、則ち魏志の所謂(いわゆる)邪馬臺なる者也。

 このくだりの「邪靡堆」について、岩波文庫は次のような注を付けている。

「靡」は「摩」の誤りであろう。すなわちヤマト(邪馬台)。

 しかし、これは、実はありえない。なぜなら隋書俀国伝は「都斯麻」(対馬)「一支」(壱岐)「竹斯」(筑紫)というように、現地名(筑紫は現地名では「ちくし」)を厳密に表記している。その上、「靡」には「ひ」の音しかない。その「音」を指示すべき「音標文字」として加えられているもの、それが「麻」の下の「非」なのである。ことさら「ひ」の音であることを、明示しているのだ。それを「摩のあやまり」と称するなど、あまりにも法外な「原文改定の手法」だ。わたしには、全く同じえない。それゆえ、これは「やひたい」と訓まねばならぬ。「都」の地に対する、「現地音の表記」なのである。

 「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意。「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す。(古田『失われた日本』原書房刊、参照)

倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。

 多利思北孤は、みずからを「阿毎(あま)」(天)と称し、弟を(日)と呼んだ、という。

 従来は、この「弟」を“一人”と「断定」的に考えてきていたけれど、この「弟」は複数存在しうる。八人の弟、つまり「八日」だ。「天(あま)である中心王者のもと、「日(ひ)」である、八人の弟たちがこれを支えるところ。」この意味をこめた「自称」、それがこの「やひたい」だったのではないか。

 この「仮説」が、今やわたしの眼に映じてきたのである。すなわち「九躰の皇子」伝説に立つ、歴史に由緒(ゆかり)深き「自称」だったのではあるまいか。とすれば、有名な「日出ずる処の天子」の名文句も、実は“八つの太陽を出だすところ(「八日堆」)に都する「天(あま)の子」(天神<あまつかみ>の子孫)”を誇示していた「自称」だったこととなろう。

 ― これが新たな「仮説」だ。そしてこの「古系図」理解の柱なのである。同時に、筑紫(筑前と筑後)を中心に、九州の中に数多く分布する「九躰の皇子」伝説に対応する「歴史認識」となるのではあるまいか。

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