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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(103)
「倭の五王」補論(6)


「倭の五王」とはだれか:真説編(5)

 前回、古賀さんは大善寺玉垂宮の由緒書の記録から、初代玉垂命が水沼に王宮を置いたのは仁徳55年(367)であることを明らかにした。この367年という年は 「七支刀」補論(2) で取り上げたように、「高良社大祝旧記抜書」「筑後国高良山仮名縁起」等に明記された年、さらに七支刀の銘文に刻印された年と同じである。つまり、七支刀を贈られた「倭王旨」とは初代玉垂命にほかならない。ということは、百済王は九州王朝の水沼への遷宮を祝って七支刀を贈ったものと考えられる。九州王朝が遷宮を必要とした時代背景を、古賀さんは次のように論述している。


 この時期、九州王朝は新羅と交戦状態にあり、新羅の軍隊に糸島博多湾岸まで何度も攻め込まれているという伝承が現地寺社縁起などに多数記されている。もちろん、朝鮮半島においても倭国百済同盟軍と新羅は激突していたに違いない。

 そういう戦時下において、九州王朝は王宮を筑後川南岸の水沼に移転せざるを得なかったのであり、百済王もそれを祝って同盟国倭国に七支刀を贈ったのだ。そう理解した時、七支刀銘文中の「百錬鋼の七支刀を造る、生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く」という文が単なる吉祥句に留まらず、戦時下での生々しいリアリティーを帯びていたことがわかるのである。

 さらに、初代玉垂命(倭王旨)以降の玉垂命が「倭の五王」であると考えて間違いないであろう。

 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳78年(390)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記事は永初2年(421)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王讃有り」とあって、東晋の安帝(在位396~418)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。

 さらに現地(高良山)記録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。

 この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

 上に「玉垂命には九人の皇子」がいたとある。この九人の皇子は「九躰皇子」と呼ばれている。古賀さんによると「九躰皇子」の名称は次のようである。

九躰皇子

 古賀さんは長男斯礼賀志命が倭王旨の跡を継いだ讃、次男朝日豊盛命が讃の跡を継いだ珍と推定しているが、私は長男と次男については、いわゆる「兄弟統治」(兄が神事を司り、弟が政治を担当する。)の可能性もあると思う。そうすると次男朝日豊盛命が讃であり、三男暮日豊盛命が珍ということになる。このことは「朝日豊盛命」・「暮日豊盛命」という二人の名前の類似点もその可能性を示唆していると思う。

 また、古田さんに『高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐって』という論文がある。そこで「九躰皇子」も取り上げている。次回はこれを読んでいこうと考えている。今は古賀さんの論述の先を読んでいこう。次に古賀さんは倭王旨が女性である可能性を論じている。

 さて、今回報告した論証は、現地伝承(玉垂宮関連史料)、万葉集(水鳥のすだく水沼を都となしつ)、『宋書』『梁書』(倭の五王記事)、金石文(七支刀)のそれぞれの一致という非常に恵まれた証拠群の上に成立している。そして本論証の成立は、玉垂命の末裔である稲員家系図の分析というテーマへ筆者を誘う。同系図を倭の五王以後の九州王朝王統譜と考えざるを得ないからである。

 ちなみに、松延清晴氏によれば、同系図には筑紫の君磐井は中国風一字名称「賢」と記されているそうである。

 なお若干の残された問題を指摘しておきたい。それは、倭王旨は女性ではなかったかというテーマだ。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功52年・252)に入れられていることだ。一応、『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果ということも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、『三国志』倭人伝中の卑弥呼・壱與の記事と同様の手口で神功皇后紀に入れられたのではないかという可能性もあるのだ。そして何よりも、現地伝承に見える「高良の神は玉垂姫」という記録の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂姫神」以外にも、太宰管内志に紹介された『袖下抄』 に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。

 一方、糸島博多湾岸での新羅との戦いに活躍する「大帯比賣(おおたらしひめ)」伝承(神功皇后(おきながたらしひめ)のこととして記録されているものが多い)も、この玉垂命(倭王旨)の事績としての再検討が必要のように思われる。現時点での断定は避けるが、検討されるべき仮説ではあるまいか。

 以上、四世紀後半から六世紀にかけての倭国王宮が筑後地方に存在し、倭の五王は歴代玉垂命としてその地に君臨したというテーマを明らかにし得たと思われるのである。

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 コメント
この記事へのコメント
七支刀制作年度の新説
根拠不明ですが、新説が提出されているようです。

【韓国】日韓古代史の雷管「七支刀」の制作年度は369年ではなく408年 2009/10/15(木) 14:30:06 [サーチナ]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1015&f=national_1015_017.shtml
2009/12/24(木) 02:31 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
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