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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(100)
「倭の五王」補論(3)


「倭の五王」とはだれか:真説編(2)


『太宰府は…』に戻ります。

 「姫(き)」という氏族名は、『十八史略』に「呉は周と同じ姫姓の国」とある通り、周王朝に係累している。姓や地名に頻繁に現れる「紀」・「木」・「貴」・「基」などはみな「姫」のバリエーションだろう。ではその「姫氏」が「松野連」を名のっているのは何故だろうか。

 この系図のおおもとのものは、8世紀ごろ藤原不比等らによって墓記が没収されたときに、うろおぼえの記憶をもとにして復元しようとして作られたのではないかと考えられている。従って、書き落としや誤記入もあるかも知れない。また、後に書き加えられたものもあるようだ。一応そこに書かれた通りに、初代の首長から「松野連」を名のるまでのこの一族の歴史をまとめてみよう。

① 「忌」(呉王夫差の次の代、つまり渡来一族の初代首長)の時
 「姫氏」は、紀元前473年に火の国(肥の国)山門郡(現在の福岡県八女市の南西)周辺に渡ってきた。

 「忌」のところに「孝昭天皇三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」とある。「孝昭天皇三年」は皇暦(神武天皇から数えて何年という大和政権独自の年歴)では「紀元前473年」にあたる。夫差の呉国が滅んだ時である。

 鈴木真年という系図研究家は、「資治通鑑」(1084年成立)という中国の史書に、「周の元王3年(管理人注:「十八史略」では「周の元王の4年」となっている)、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記しているという。確認できていないが、中国でも、夫差の一族が日本列島に落ちのびて倭人になったという伝承が伝えられていたようだ。「周の元王3年」は、「孝昭天皇3年」と同じく紀元前473年である。松野連の系図の書き込みはこれらの記事を参考にしたのかもしれないが、松野連家そのものがそういう伝承をもっていたことは十分考えられる。

 中国の正史では晋書や梁書にも、
「倭人自らいう、太伯の後(子孫)なり、と」
と記録している。(管理人注:「十八史略」に太伯は「周の文王の伯父」とあった)

 周代の後半、東周時代(春秋戦国時代ともいう。紀元前771ー同256年)には中国各地に封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、多くの半独立国が建てられた。現在知られている約200国のうち、約50国、すなわち4分の1ほどは姫(紀)氏の国だった。日本の縄文時代晩期から弥生時代にあたる。

 戦国時代をへてこれらの国はつぎつぎ淘汰され、負けた国の王やその一族は殺されたり奴隷にされたり、日本列島や朝鮮半島に新天地を求めてぞくぞく渡って来たらしい。中国は倭のことを「東海姫氏国」と呼んでいた(釈日本紀など)という。いろいろな、あちこちの姫氏がかなりの数渡来して、それぞれが日本列島のあちこちで国を建てたことを物語る話と思われる。古事記では「木」、日本書紀では「紀」と表示される人々だ。埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた「記」もその可能性が高い。

②「順」(「忌」の次の代)の時
 委奴に移住して王になり、前漢の地節2年(紀元前68年)、宣帝に使いをだした。


 「委奴」の位置について、内倉さんは次のように述べている。

 「委奴」は現在の福岡市西部から佐賀県北東部の唐津市周辺、糸島半島を中心にした地域である可能性があると筆者は思う。魏志倭人伝にいう「伊都(いと〉国」の地である。伊都国を望む志賀島は「漢の委奴国王」の金印が出たところである。糸島半島は後まで「火(日、肥)の君」すなわち「紀氏」が住んでいた場所でもある。現存するわが国最古の戸籍、大宝2年作成で正倉院文書に残されていた「筑前国嶋郡戸籍川邊里」に数多くの「火の君」が記録されている。



 私は上の比定を「委奴」=「伊都国を含んだ地域」と読んだ。もしも「委奴」=「伊都国」と考えているのなら、それは間違いである。実は例の「漢の委の奴国王」という読みは明治時代の三宅米吉という学者が提唱して定説となったものだ。それ以前は「漢の委奴(いと=伊都)国王」と考えられていた。三宅説が定説になったのは、「委」の音は「ゐ」であり「伊」の音「い」とは違うこと、また「奴」に「と」という音はなく、「都」に「ど」という音はない、「委奴」=「伊都」は間違いという三宅の論理がまさっていたからである。「委奴」=「伊都国」では2代前の間違いに先祖帰りすることになる。

③「熊鹿文(くまかや)」(「順」の8代後)の時
 西暦57年、後漢に使いをだして印綬をもらった。


 この遣使は後漢書に記されている遣使にあたる。熊鹿文が金印を授与された王ということになる。

 ついでに金印に刻まれた文字「漢委奴國王」の読みについて記しておこう。定説となっている読み「漢の委(わ)の奴(な)國王」がだめなことは古田さんが詳しく論証している。要点を簡単にまとめると
★「委」を「わ」と読むのは無理「委」にそのような音はない。
★「委」国の支配下にある国「奴」の王が金印を授与されるなどありえない。
 「委=倭=大和」としたいためのヤマト王権一元主義者の苦肉の愚説だ。古田さんは、この系図とは無関係に、「委奴」で一つの国名であり、これを「いど」と読むべきとしていた。最近は「いぬ」説をとっているようだ。

④ 「熊鹿文」の11代後が「讃」であり、あと珍・済・興・武と続く。この王家が一番繁栄していた時代だ。

⑤ 「牛慈」(「武」の3代後)の時
 金刺宮の時、降伏して夜須評督になった。


 夜須評は福岡県朝倉郡夜須町付近のことだろう。太宰府の隣、筑紫野市に隣接しているところである。「金利宮御字の時、大王の座から降ろされ、評督の位をもらった」という。「金刺宮にいた天皇」とは記紀にいう天国排開広庭天皇(諡は欽明天皇、六世紀中ごろ)なのだろうか。

 内倉さんは、「金刺宮」とは欽明天皇だろうか、と推定しているが、ちょっと混乱しているようだ。欽明紀には任那日本府の経営や新羅との交渉記事が盛りたくさんだが、もちろんこれらは九州王朝の事績の盗用である。また「郡評問題」で明らかにされたように、「評督」は九州王朝における官職である。私は「姫氏」から、あの多利思北孤を出した「阿毎氏」への政権交代ではないかと推定する。

⑥ 「津萬侶」(「牛慈」の3代後)の時
 「松野連」の姓を負った。


 「松(野)」の姓は「甲午の年(持統天皇694年)に負う」という。「姫氏政権隠し」のために強制的に変えさせられたとも考えられる。一連の「氏族の歴史隠し」のひとつだろう。

 「松野連」は本来、「松の連」だったのではないかと思う。「野」は接続詞の「の」だ。中、北部九州には今も「松尾」「松延」「松田」「松井」「松隈」「松永」「松丸」「松雪」など「松」を冠した苗字の家が驚くほど多い。もちろん「松野」もある。例えば、福岡市の電話帳を引いて見ると「松」を冠した苗字の人が延々34頁にわたって名を連ねている。この方々のすべてが「松の連」と関係があるのかどうかはわからないが、福岡市内やその周辺部の市町村でも随一の多さである。北部九州以外の地域では見られない特徴だ。

 福岡市の北東、宗像都津屋崎町にある宮地嶽古墳を祭る宮地嶽神社の紋も松である。この古墳(現在は7世紀代の築造とされている)は、長大な石室のなかに火葬骨用の金色の蔵骨器や王冠を納めていたことなどで知られるきわめて特異な古墳である。また、各所に老松神社もある。八女市にお住まいの「松延」さんのご本家稲員(いなかず)家は、「九州王朝の末裔」を名乗り、系図もお持ちである。

 稲員家の系図は、このHPに何度か登場していただいている「古田史学の会」の古賀さんによって発見され、研究されている。それによると、稲員家は高良大社の祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)の末裔であり、歴代の高良玉垂命が倭の五王であったという。次回から、「松野連」系図と比べながら、この古賀さんの論考を読んでいくことにしよう。
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