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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(102)
「倭の五王」補論(5)


「倭の五王」とはだれか:真説編(4)


 万葉集4261番歌が歌う水沼が確かに皇であった痕跡を、古賀さんが古田さんとは別の観点から確認している。古賀さんはまず「太宰管内志」で三瀦郡を調べる。(青字は「太宰管内志」からの抜粋文。その後の引用文は、それに対する古賀さんの考察。)

注:「太宰管内志」
 九州の地誌(壱岐・対馬を含む)。1841年(天保12)。福岡藩の学者・伊藤常足が調査し作成した書物で約37年を費やしたという。


○御船山王垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉
○大善寺 大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林防絶て其跡に天皇屋敷と名寸て聊残れり


 玉垂大菩薩の没年が九州年号の端正元年(『二中歴』では端政。589年)と記されていた。ここの玉垂宮とは正月の火祭(鬼夜)で有名な大善寺玉垂宮のことだ。しかも、座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えている。玉垂命とは倭国王、九州王朝の天子だったのだ。端政元年に没したとあれば、『隋書』で有名な俀王・多利思北孤の前代に当たる可能性が高い。

○高三瀦廟院三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とし(略)鳥居に高良廟とあり

 なんと玉垂命の御廟までがあると記されている。「歴史は足にて知るべきものなり」という古田さんのモットーを古賀さんも共有している。古賀さんは現地調査に乗り出す。

 年末の大善寺は正月の行事、火祭の準備で忙しそうだった。火祭保存会会長光山利雄氏の説明によれば、玉垂命が端正元年に没したという記録は、大善寺玉垂宮所蔵の掛軸(玉垂宮縁起、建徳元年銘《1370》、国指定重要文化財)に記されているそうだ。

 いただいた由緒書によれば玉垂命は仁徳55年(367)にこの地に来て、同56年に賊徒(肥前国水上の桜桃ゆすら沈輪)を退治。同57年にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同78年(390)この地で没したとあり、先の端正元年に没した玉垂命とは別人のようだ(『吉山旧記』による)。

 とすれば、「玉垂命」とは天子の称号であり、ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味することとなろう。その中に女性がいてもおかしくはない(『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある)。

 「その中に女性がいてもおかしくはない」という一文に唐突さを感じられた方もいるかも知れない。実は上の引用文の前に「父の運転する車に乗り、三瀦の大善寺に急いだ。玉垂命は九州王朝の天子だったという仮説を父に説明すると、父は『大善寺の神様は女の神様と聞いているが』と不審そうだった。」という一文がある。これをふまえた判断である。ちなみに、『高良山の「古系図」』という論文で古田さんが「高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏」と書いている。たぶんこの方が古賀さんのお父上だろう。(『高良山の「古系図」』には後ほどお世話になる予定です。)

 大善寺から少し離れた高三瀦の廟院にも行ってみた。それは小さな塚で、おそらくは仁徳55年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。

(中略)

 天孫降臨以来、糸島博多湾岸に都を置いていた九州王朝が、4世紀になって三瀦に王宮を移したのは、朝鮮半島の強敵高句麗との激突と無関係ではあるまい。この点、古田氏の指摘した通りだ。天然の大濠筑後川。その南岸の地、三潴は北からの脅威には強い場所だからだ。従来、三瀦は地方豪族水沼の君の地とされていたが、どうやら水沼の君とは九州王朝王族であったようだ。そしてこの地は4世紀から7世紀にかけての九州王朝の王宮が置かれていたことになる。万葉集の歌「水鳥のすだく水沼を都となしつ」はリアルだった。

 古賀さんは「遷都」ではなく、慎重に「遷宮」と言っている。「都」全体の移動ではなく、王宮だけの移動という可能性の方が高いとの判断からだろう。

 ところで、九州王朝の遷宮(あるいは遷都)という問題については、すでに古田さんが『失われた九州王朝』で次のように概観している。

 九州王朝の都は、前2世紀より7世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、1世紀志賀島の金印当時より3世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府付近をふくむ)に都があった。5世紀末には、太宰府南方の基肄城(きいじょう)辺りを中心としていた時期があったように思われる。

(中略)

 そのあと、6世紀初頭の磐井は筑後の八女市に近い、岩戸山古墳の近傍に都していたことは、よく知られている。

(中略)

 けれども、『博多湾岸―基肄城―筑後』(ただし『博多湾岸』には基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。

 こうなると、倭王・磐井の墳墓とされている岩戸山古墳だけでなく、三潴近辺の他の古墳も倭王の墳墓という可能性がでてくる。

 そうすると、同地にある古墳(御塚、権現塚)も九州王朝天子の古墳としなければならないが、5世紀後半から6世紀前半にかけてのものとされ、筑紫の君磐井の墓、岩戸山古墳の円筒埴輪との類似性からも同一勢力の古墳と見て問題無い。

 更に、大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長123㍍以上)・権現塚(円墳、全長150㍍以上)の両古墳よりも大規模な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ。こうして見ると、今まで岩戸山古墳以外は不明とされていた九州王朝倭国王墓の候補が三つ増えたことになる。

 これら古墳の他、都にふさわしい遺構として、高良山麓からわが国最古の「曲水の宴」遺構が発見されている。筑後川南岸の新都心三瀦と筑前太宰府との関係は複雑だが、今後明らかにされるであろう。

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 コメント
この記事へのコメント
「玉垂」とは
>「玉垂命」とは天子の称号
玉垂(たまだれ)で連想するのは、天皇の冠「冕冠」(べんかん)に付けられた瓔珞(ようらく)/旒(りゅう)。(もっとも日本では天皇だけでしたが、中国では冕冠は皇帝だけでなく卿大夫以上が着用したそうです。)
2009/12/22(火) 09:00 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
帆立貝式前方後円墳
寺沢薫が唱えた「帆立貝式前方後円墳」に関する新学説、「纒向型前方後円墳」がウィキペディア記事として掲載されましたのでご参考まで。
2009/12/22(火) 09:04 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
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