2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(101)
「倭の五王」補論(4)


「倭の五王」とはだれか:真説編(3)


 (今回からは、古賀達也さんの論考「九州王朝の筑後遷宮(『新・古代史学4集』所収)とHP「新古代学の扉」の諸記事が教科書です。)

 高良山の麓で育った古賀さんは高良大社の祭神・高良玉垂命は何者かという問題を、避けて通れなかったテーマだと言う。上記論文はその問題の解明報告である。

 問題解明の発端となったのは、作者不詳の万葉集巻19の4261番歌であった。例によって定説(岩波「日本古典文学大系」)の訳を転載しよう。

4261番
(原文)
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

(読み下し文)
大君は神にし坐(ま)せば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都(みやこ)と成しつ


(大意)
天皇は神でいらせられるから、水鳥の多く集まっている沼地を、たちまちのうちに立派な都となさった。


 天皇を超能力者に仕立て上げて、揶揄追従のオベッカ歌にしてしまっている。こういう珍解釈はヤマト王権一元主義の宿痾である。はなからヤマト王権に由緒のある歌と決めかかっているので、「水沼」を「沼地」という一般名詞にしてごまかすことになる。また、原文の「皇都」を読み下し文では単に「都」と変えている。もう一つ、これは以前にも取り上げられているが、「大王」=「天皇」としている点も問題である。

 実は「水沼」という地名は日本書紀に出てくる。学者たちが知らぬはずがないのだ。

① 神代紀上(素戔嗚尊の誓約、一書第三)
筑紫の水沼の君等が祭る神、是なり。

② 景行紀(景行の九州大遠征、景行18年7月)
時に水沼県主猿大海(さるおほみ)、奏して言(もう)さく。「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(もう)す。常に山の中に居(ま)します」ともうす。故、八女国の名、此に由(よ)りて起れり。

③ 雄略紀(月夜の埴輪馬、10年9月)
身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉(くれ)の献(たてまつれる)二(ふたつ)の鵝(が)を将も)て、筑紫に到る。是の鵝、水間君(みぬまのきみ)の犬の為に齧(く)はれて死ぬ。

 水沼は筑紫にあることが明らかで、②の頭注は「水沼県は筑後国三潴郡。今、三潴郡・大川市。和名抄に美無万と詠む。」と、その現在地まで明らかにしている。三潴は現在では「みずま」と読んでいるが、もとは「美無万」=「みぬま」であることがわかる。

 さて、ヤマト王権一元主義者には、4261番歌の「水沼」が「三潴」であっては困るのだ。九州に「皇都」があったことになってしまう。たいへん不都合である。「水沼」=「沼地」という苦肉の策をとらざるを得ない。

 ではこの歌の真の意味はどうなるのか。実はこの歌については古田さんが詳しく論じている。この歌は4260番歌と対になっていて、古田さんはその二つの歌を関連させながら論じている。

「四千二百六十番と四千二百六十一番」

 この講演録から4261番歌についての分析部分だけを要約する。

 この歌には一見矛盾がある。「皇都」とは天子が居る都城である。「大王」は天子ではない。大王が居るところを皇都とは言わない。大王と皇都とは両立しない。ではこの歌をどう評価すればよいのだろうか。

 この歌は、自身は亡くなられた大王のおかげで皇都になったという考えに基づいて歌われている。「大王は神にしませば」は亡くなった大王への常套句である。歌の大意は次のようになる。

 大王は水沼に宮殿を作り、亡くなった。そして彼の死後、彼の息子は中国の天子と同じ称号を名乗った。それゆえ筑紫の水沼は皇都に成った。

 上の解釈が妥当である確かな論拠は「隋書・俀国伝」の証言である。

 中国の歴史書によれば、倭王は中国南朝の支配下にあった。しかし西暦589年南朝陳は北朝隋に征服された。盟主国が滅んだため、西暦600年、天毎氏多利思北孤は隋書に対して天子を名乗り、海西の菩薩天子と称した。また、隋の外交使節団が倭国に来訪している。そしてその記録によれば、首都の位置は阿蘇山の噴火を眺められる所であると証言している。九州筑後水沼(三瀦)が皇都であることは、これらの事実が支える。さらに古田さんは、この論拠を補強する事実を8件列挙している。

1)
 天の長者伝説がある。彼は日田から三沼の筑後川流域を支配した。しかしその伝説には701年以降にすべての筑後川流域を支配した人は誰一人存在しない。古賀さんは、天の長者は九州王朝の天子として筑後川流域を直轄支配していたと考えている。

2)
 久留米の筑後国府跡に天子の遊びである曲水の宴の遺跡がある。曲水の宴は天子の遊びである。さらに、曲水の宴跡は701年以前には、宮城県仙台多賀城と福岡県筑後久留米にしか存在しない。倭国の首都が筑後にあり、蝦夷国の首都が仙台にあった証拠である。唐の時代の記録に、蝦夷国の使者が倭国の使者に伴われて唐に朝貢を行った、とある。

3)
 筑後国交替実録帳によると、竹野郡(現田主丸町)に正院があった。正院は寺院のような壁に囲まれた二重の石垣で構成された宮城大垣の中に存在していた。その正院は法皇の居るところを意味する。現在まで平安時代末期の大和朝廷の法皇でここに居た人物は誰一人存在しない。また、いわゆる崇道天皇はここに来たことはない。それにも関わらず古いお寺の字地名が多数存在する。お寺はほとんど存在しないにも関わらず、石垣、踏石、礎石がある。加えて筑後随一の井の丸長者井戸がある。ここに法皇が居たことは確実と言える。

4)
 同じく築後国交替実録帳によると、浮羽町に正倉院があった。701年以後書かれた正倉院文書築後国正税帳によれば、たくさんの宝物を近畿天皇家に献上させている。大和朝廷はここの宝物の一部を奈良の正倉院に持って行った。たとえば
 a)
  天子の遊びである鷹狩りのための15匹の御鷹犬と30匹の鷹。
 b)
  多くの鋳造師・ろくろ・木地師。(たぶん東大寺の大仏を作るための)
 c)
  113個の白玉(真珠)701個の碧玉(紺玉?サファイア)、933個の縹玉 (ガラス玉)4セットの赤勾玉(ルビー)その他管玉(竹玉)、縹玉、 勾玉。
 これらのものは天子しか所有できない。

5)
 田主丸町を中心にした条里制の遺跡がある。これらの条里制はいわゆる国司が施行したと言われています。しかし明確な記録がない。

6)
 4・5世紀の古墳は300基を越える。(明治時代までは1000基近くあった。)有名な古墳では御塚・権現塚、珍敷塚(めずらしつか)古墳などがある。

7)
 久留米と太宰府を含む筑紫をとりまいて、神護石式山城と朝鮮式山城と呼ばれる一連の古代要塞がある。これらの山城は大和朝廷を護るために造られたと言われているけれども、しかしながらそれでは何の目的で筑紫をとりまいているか不明である。

8)
 より確実な絶対年代を測定する科学的な方法が開発されてきている。放射性炭素式年代測定法と年輪年代測定法である。それらによると、たとえば太宰府の防衛のための水城では、前の堀から出た木樋の14炭素年代測定で、紀元400年±40年と検出された。博多湾に存在した外交使節を迎えるための鴻臚館の木樋では、紀元385~475、紀元465~555、紀元525~605、紀元565~655が検出された。放射性炭素式年代測定法は年輪年代測定法に比べて測定精度は良くないが、ほとんど全てが白村江の前を指している。これは水城が太宰府を防衛するために6世紀に構築されたことを示している。

 また、対馬の金田城の14炭素年代測定は紀元540~640、紀元590~650が検出された。壱岐と対馬の狼煙を揚げる要塞の構築は、白村江の戦いの前の6世紀であったことが明確になった。

 以上から、曲水の宴、条里制、神護石式山城と朝鮮式山城が確実に白村江の戦いの前の6世紀以前に作られたことが明らかになった。これらの事実は、筑紫における九州王朝の存在を疑問の余地なく主張している。これを認めないのは、ヤマト一元主義というイデオロギーにとらわれたものだけである。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2009/12/19(土) 10:36 | | #[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1398-b42270d5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック