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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(99)
「倭の五王」補論(2)


「倭の五王」とはだれか:真説編(1)

 日本側には「倭の五王」の存在を示す資料は全くないのだろうか。それがあることを『太宰府は…』で知った。
 倭の五王の中国風一字名「讃・珍・済・興・武」は対外的に外交用として使われたもので、国内的には倭風の名前を使っていたと思われる。その中国風一字名そのものを記した系図が国立国会図書館と静嘉堂文庫の2ヵ所に所蔵されているという。『太宰府は…』には国会図書館所蔵の系図の写真が掲載されている。その系図の表題には「松野連 姫氏」とあり、系図は「呉王夫差(ふさ)」から始まっている。松野連は平安時代に編集された「新撰姓氏録」の「右京諸蕃上」(諸蕃=渡来系の氏族)にも次のように記載されている。

松野連(まつののむらじ) 呉王夫差より出づ

(インターネットはすごいと、改めて感心している。 「新撰姓氏録」 が全て読める。ちなみに、諸蕃氏族は上巻に39、下巻に63も記録されている。)

 呉王夫差とは「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」などの成句のもとになっている春秋時代の故事に出てくる呉の王である。越王勾践(こうせん)に破れた後、生き残った一族郎党が九州に逃れてきたのだろうか。

 ここで関心が逸れてしまった。ちょっと横道に入ります。

――――――――――――――

(付録)

 「臥薪嘗胆」の故事は知っていたが、その故事を含む一連の記事を読んだことがない。ついでなので読んでみようと、現代語訳をネット検索をした。いくつかあった。自分で訳したように扱っているが、ネタ元があってそれをコピーしたもののようだ。まったく同じ文章で、原文に忠実ではなく、冒頭部分を欠くのも同じ。(どなたのがネタ元なのか分からない。コピーした人はネタ元を明らかにするのがマナーでしょう、と思ったことでした。)

 ついでなので、原文に忠実なまともな訳をアップしようと思った。丸山松幸・西野広祥訳『十八史略』(徳間書店)を使います。原文、読み下し文は省略して、現代語訳のみを転載する。

〔十八史略・呉〕

墓前に剣を献じる

 呉は周と同じ姫(き)姓の国で、周の文王の伯父にあたる太伯(たいはく)、仲雍(ちゅよう)が封せられて創建された。十九代目の寿夢(じゅぼう)のときになって、はじめて王と称した。

(注:兄太伯が周から南方に奔って呉を建てたが、子どもがなかったので、弟の仲雍がそのあとを継いだ。)

 寿夢には4人の男の子があり、末子を季札(きさつ)といった。季札は人並みすぐれた人物だった。

 寿夢はなんとかして季札に国を継がせたいと考えた。そこで、男の子の上のほうから順に継がせ、ゆくゆくは季札に継がせようとした。しかし、季札はそれでは義にそむくとして、したがおうとはしなかった。結局、季札は延陵(えんりょう)の地に封ぜられ、廷陵の季子と呼ばれた。

 あるとき、季札は王命を受けて他の中原の諸侯に挨拶まわりに出かけた。その途中、徐(じょ)の国に立ち寄ったときのこと、徐の君が季札の佩(お)びていた宝剣に格別の関心を示し、いかにもほしそうな顔を見せた。それと察した季札は、すぐにも宝剣を贈ろうと思ったが、なにぶんにもまだ使命をはたしていない。そこで、使命をはたしてから贈るつもりでいったん徐の国を離れた。

 しかし、使命をはたしたのち、ふたたび徐の国を訪れたときは、すでに徐君はこの世にいなかった。そこで季札は、宝剣を徐君の墓前に献じて帰途についた。

臥薪嘗胆

 寿夢ののち、四代を経て、闔廬(こうりょ)にいたる。闔廬は伍員(ごいん)を顧問に取り立てて国政の相談相手にした。

 伍員は楚の人伍奢(ごしゃ)の子であり、字を子胥(ししょ)といった。伍奢が楚の平(へい)王に殺されたので、子胥は復讐を誓いつつ、呉に亡命していたのだった。

 子胥は、闔廬に引き立てられると、呉軍を率いて楚都郢(えい)に攻め入り、念願をはたした。

 その後、呉がふたたび越を攻めたとき、闔廬は傷を負い、それがもとで死んだ。

 闔廬が死ぬと、その子夫差が王位を継いだ。子胥はひきつづき夫差(ふさ)に仕えることになった。

 夫差は父の仇を討とうと心に誓い、朝晩たきぎのなかに寝起きしてはわが身を苦しめ、出入りのさいには、臣下に、
「夫差よ、父が越王に殺されたことを忘れたのか」
といわせては、復讐の念を新たにした。

 周の敬(けい)王の26年、夫差は夫椒(ふしょう)の戦いでついに越を破った。越王句践(こうせん)は残兵を率いて会稽(かいけい)山に逃げこみ、夫差にこう申し出た。
「どうかわたしを大王の臣にし、妻を大王の妾にしていただきたい」


 子胥はこの和議を受諾しないよう主張したが、越から賄賂を贈られた呉の太宰(たいさい)の伯嚭(はくひ)は、句践をたすけるよう夫差に説いた。夫差は伯嚭の言を入れて、句践を許してしまった。

 こんどは句践が復讐を誓う番となった。帰国するや、句践は自分の部屋に干した獣のキモを吊りさげておき、いつもそれを口にして苦さを味わっては、
「会稽の恥を忘れはすまいな」
と自分自身にいいきかせた。そして国政はすべて大夫の文種(ぶんしょう)にまかせ、自分は賢臣范蠡(はんれい)とともに軍を鍛え、呉への復讐だけに専念した。

(注:〈臥薪嘗胆〉…夫差が."臥薪"―たきぎの中で寝る―し、句践が"嘗胆"―キモをなめる―して、ともに復讐を誓ったことから「臥薪嘗胆」の成語が生まれた。辛苦に耐えて将来を期す意味である。)

子胥に会わせる顔がない

 太宰の伯嚭は、子胥を失脚させようとして夫差に讒言(ざんげん)した。
「子胥は、自分の意見が取り入れられなかったことを根に持って、大王を怨んでおります」

 怒った夫差は、属鏤(しょくる)という剣を子胥にあたえた。この剣で自殺せよ、という意味である。

 死に臨んで、子胥は家族の者にこう告げた。
「おれの墓には檟(ひさぎ)の木を植えてくれ。呉王の棺桶がつくれよう。また、おれの眼をえぐり取って東門にかけてくれ。越軍が攻めて来て、呉を滅ぼすのを見とどけたい」

 そして、みずから首をはねて死んだ。このことを伝え聞いた夫差は、子胥の屍を取りあげて馬の革でつくった袋につめ、揚子江に投げ捨てた。

 呉の人びとは、子胥をあわれんで揚子江のほとりに祠(ほこら)を建てて子胥を祀り、「胥山」と名づけた。

 さて、復讐を誓った越は、最初の10年を民生の回復にあて、つぎの10年を兵の訓練にあてた。かくして、周の元(げん)王の4年、越はついに呉を攻めた。

 呉は越と三度戦いを交えたが、三度とも敗れた。夫差は姑蘇(こそ)山に逃れ、越に和議を請うた。だが、范蠡が断固として反対したため、越王はこれを受け入れなかった。

 もはやこれまで、と悟った夫差は、「子胥に会わせる顔がない」といって、自分の顔を布で覆い、自殺した。

范蠡の転身

 越が呉を滅ぼし、句践が覇王となると、范蠡は越を去った。かれは斉から大夫の文種(ぶんしょう)に手紙を送り、こういった。
「越王は首が長く、口が黒くてとがっている。あれは凶悪の相、苦労は人にわかつことができても、楽しみはわかてぬお人柄です。あなたも躊躇なさってはいけません」

 これを読んだ文種は、病気と称して家にひきこもった。すると、句践にこう讒言する者が現われた。
「文種は反乱をたくらんでおります」

 怒った句践が文踵に剣を下賜したので、文種は自殺した。

 范蠡は越を出るとき、持ち運びのできる宝石類を船に積みこみ、一族郎党とともに、水路を通って斉に移住したのである。斉では名も鴟夷子皮(しいしひ)とあらため、息子たちと蓄財にはげみ、またたくまに数千万の富を築いた。

(注:〈鴟夷子皮〉…長居をしては、子腎のように馬の革でつくった袋につめられる運命になるという意味がこめられている。)

 このため、かれは斉君にその能力を見こまれ、宰相就任を懇請された。

 范蠡は深いため息をついた。
「野(や)にあっては千金の財を築き、仕えては宰相にのぼる。匹夫の身にとって、これ以上の栄達はない。だが、栄達が長くつづくのは禍のもとだ」

 范蠡は斉の招きを固辞し、資産をことごとく人びとにわけあたえ、特別高価な財宝だけを持って、ひそかに村を離れ、陶(とう)に移住し、その名も陶朱公(とうしゅこう)とあらためた。

 陶においても、范蠡はたちまち巨万の富を築いた。

 あるとき、魯の猗頓(いとん)という者が范蠡をたずねて来た。
「金持になる方法を教えてください」
「それではまず、牝年を五頭飼ってみなさい」

 猗頓が、いわれたとおりに猗氏という土地で牧畜にはげんだところ、10年もたつと王公と肩を並べるような金持になった。以来、天下では、金持といえば、陶朱と猗頓の名をあげるようになった。

(注:〈陶朱猗頓の富〉…陶朱公と猗頓が大金持になった故事により、ふたりの名前をあわせて、大金持のことを「陶朱猗頓」または「陶猗」といい、その富をさして「陶朱猗頓の富」または「陶猗の富」というようになった。)
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この記事へのコメント
『新撰姓氏録』の証言
「倭の五王」に関して「新撰姓氏録」を取上げるなら、
三宅利喜男「『新撰姓氏録』の証言」(古田史学会報29号)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/kaihou29.html
が、仁徳から武烈の十代の天皇を祖先とする氏族が皆無であることを指摘したことに触れておくべきかと思います。

ちなみに、同号には古賀達也「九州王朝と『旧撰姓氏録』」という論文も掲載されています。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/koga29.html
2009/12/19(土) 10:33 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
ゴンベイさんへの返信
ご教示ありがとうございます。さっそく二つの論文を読んでみました。
「仁徳から武烈の十代の天皇を祖先とする氏族が皆無」というテーマはとても興味深いです。
古賀さんの推測が正しいと思いました。
2009/12/20(日) 14:23 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
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