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《「真説・古代史拾遺編》(97)
「七支刀」補論(3)


なぜ七支刀は石上神宮にあるのか


 『原色日本の美術1』に七支刀が収録されている。その解説では
「古くから石上神宮の神宝として伝えられており、早く平安時代の終りごろから人々の関心が寄せられた。」
と書かれている。「古くから」とか「平安時代の終りごろ」とか、全て曖昧だし、このような断定ができる記録があると聞いたこともない。この解説はまったく根拠のない単なる憶測に過ぎない。

 七支刀をネット検索してみた。信憑性のある事実だけをまとめてみる。

 石上神宮は古代の豪族物部氏の武器庫であったという。境内には本殿がない特異な神社である。現在の本殿は1913年に建てられたもで、それまでは本殿がなかったのだ。本殿に当たる所(拝殿の奥側)には「平国之剣(くにむけしつるぎ)」(神武記の伝承)が埋められていた。その剣と剣の霊威が祭神であり、「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」として祀られている。その場所は「高庭之地」と呼ばれていて、禁足地、つまり立入禁止の場所とされてきた。

 七支刀がにわかに脚光を浴びたのは明治時代初期である。当時の石上神宮大宮司菅政友(かんまさすけ)が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見したのがそのきっかけであった。以来その銘文の解釈・判読を巡って論争が続いてきた。この論争も古田さんが決着を付けたことは、「真説・古代史(51)~(53):七支刀」 で見たとおりである。

 ところで、『太宰府は…』で内倉さんが七支刀について次のように論じている。

 石上神宮が古くからこの刀を大事に所蔵していた記録や伝承はない。なんらかの事情で九州に本拠を置いていた物部氏の手に入り、大和の物部氏(石上神宮の建立氏族)にもたらされた。しかし本来、大和とは縁のない刀であるから、神宮の宝庫には入れず、境内に「禁足地」を設けて埋めておいた、と思われる。

 この異形の刀は、国と国の交渉を物語る貴重な歴史遺産であり宝である。石上神宮を建立した物部氏はその辺のことは十分承知していたであろう。しかし、大和の物部氏はそれをあたかも自分のもののように扱う、などということはしなかった。歴史隠しの陰謀を推し進めていた大和政権からは、廃棄命令が出されていたかもしれない。物部氏や石上神宮の見識の高さやきちっとした扱いがしのばれる。

 「九州に本拠を置いていた物部氏」とか「大和の物部氏」とかに疑念を感じる人がいるかも知れない。「物部氏」については別稿で取り上げようと思っている。ここでは「こうやの宮」の正式名称が「磯上物部神社」であること(『太宰府は…』による)を指摘しておこう。  ところで、禁足地「高庭之地」が1874年に発掘されている。公式に発掘されたのはたぶんこれが初めてであろう。Wikipediaによると、禁足地には「2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた」とある。私は「2つの神宝」とは上記の平国之剣と、もう一つは七支刀かと思った。しかし、出土したのは「剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝」と記録されていて、七支刀は明記されていない。上記の「金象嵌銘文の発見」記事と考え合わせると、七支刀は相当以前に石上神宮の神宝として密かに「地上で」秘蔵されていたようだ。

 では七支刀はいつ地上に姿を現したのだろうか。記紀成立時点においては石上神宮に七支刀はなかったことは、古田さんが『失われた九州王朝』で詳しく論証している。さらに古田さんは、七支刀はその時点以後において九州の地から天皇家に献上させられた、と推定している。何らかの形で九州から奈良へ移動したのは確かだが、「天皇家に献上」という形だったどうかは、何の記録のない以上、単なる推測に過ぎない。七支刀はかなり腐食している点から、私は内倉説をとりたい。

 内倉さんは「最初から同神宮の宝庫に納められていたのでなく、近世に、境内の禁足地から出土したというなぞの刀である。」と述べているが、「近世に、境内の禁足地から出土した」とする根拠(出典)が明らかにされていないので、全面的に支持することは出来ないが、私は一番真実に近いのではないかと考えている。
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