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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(95)
「七支刀」補論(1)


「七支刀は百済王から倭王への贈り物」・その傍証

 久しぶりに古代史です。

 内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』(「太宰府は…」と略記する)を読んだ。著者は「古田史学の会」の会員ではないが、古田さんの多元史観に立たなければ古代史の真実は語れないという立場から、論を進めている。興味深い論題がたくさんあった。この本から題材を選んでいこうと思う。私なりにまとめるに当たっては、例によって古田さんの著書やHP「新・古代学の扉」の記事を援用する。

 さて、「七支刀は百済王から倭王への贈り物」ということは、古田さんにより論証済みの命題です。(下記の記事をご覧下さい。)

「真説・古代史(51)~(53):七支刀」

 この論証を補強する物があった。「太宰府は…」に、福岡県瀬高町太神(おおが)にある「こうやの宮」と呼ばれる小さな祠にご神体として祀られている5体の人形が取り上げられていた。この話から始めようと思っていたところ、たまたま図書館から借りてきた古田さんの著書『古代史60の証言』にその御身体が取り上げられていた。今回の話題はこの本を利用しよう。

 『古代史60の証言』は美しい本です。B4版ほどの大判の本で、前ページにカラー写真が添えられている。その写真を見ていると、古田さんが解明した古代史の真実がより一層リアルになってくる。まず、この本に掲載されている「こうやの宮」のご神体の写真を紹介しよう。

こうやの宮のご神体
(クリックすると大きくなります。)

 これらの人形や祠がいつの頃に作られなのかつまびらかでないが、因幡家など当地の人々が代々守ってきたという。人形の色は時々塗り変えられ、大事に受け継がれている。祠で祀られている位置で向かって右から、それぞれの人形の特徴をまとめると

(1)上の真ん中の人物
 貴人の風態で、胸に鮮やかに桐の紋が描かれている。二重敷物の上に坐っている。他の4人は立像である。像の大きさも、他の4人より一段と大きい。
(2)右側の人物
 百済の宮人といった風態で、七支刀をもっている。1刃が欠けているのは、子どものいたずらによるとのこと。
(3)上の左側
 〝みずら″風の髪型で、手に柄つきの鏡をささげ持っている。
(4)下の真ん中の人物
 背が高く、〝マント風″の衣をまとっている。
(5)下の左側の人物
 裸でパンツ風の下衣をつけ、両腕に金の輪をはめている。手にひも状のものをさげているが、その先のものは失なれていて何かは分からない。

 これらの人形は何を意味しているのか。古田さんは次のように解説している。

 その一の人物が主人公。この「こうやの宮」の当主であろう。今、この洞は小さいけれど、当人の住んでいた宮殿の地の一角(おそらく奥宮)が、この「こうやの宮」と遺称された、当地なのではあるまいか。

 その二の人物は、百済の宮人。当主の祝典(「即位」など)に参じたのであろう。そのとき持参した宝刀、それが「七支刀」である。

 その三の人物は、近畿天皇家(分王朝)から来た、祝いの使者であろう。鏡を祭器に用いるのは、天照大神系の文明である。

 その四の人物は、北方からの使者。おそらく高句麗などか。

 その五の人物は、南方からの使者。王子であろう。「珍魚」などの〝引出物″を持参したのではあるまいか。

 要するに、「祝典あり。四方より使者きたる。」の姿を、人形で表現したのだ。慶州の掛陵(元聖王785~798)では、アラビヤ人の使者をふくむ、〝遠方からの四人の石像″が列示されている。同類の発想だ。わたしがかつて分析した通り「七支刀」は本来、当地(九州王朝)にもたらされたものだったようである。

 この時の祝典が何であったのか、古田さんは断定はしていないが(例えばとして「即位」をあげている)、「古田史学の会」の古賀さんは「遷都」という仮説を提出している。

 この時期、九州王朝は新羅と交戦状態にあり、新羅の軍隊に糸島博多湾岸まで何度も攻め込まれているという伝承が現地寺社縁起などに多数記されている(この伝承については別に論じる予定)。もちろん、朝鮮半島においても倭国百済同盟軍と新羅は激突していたに違いない。そういう戦時下において、九州王朝は都を筑後川南岸の水沼に移転せざるを得なかったのであり、百済王もそれを祝って同盟国倭国に七支刀を贈ったのだ。そう理解した時、七支刀銘文中の「百練鋼の七支刀を造る、生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く」という文が単なる吉祥句に留まらず、戦時下での生々しいリアリティーを帯びていたことがわかるのである。

 この仮説の信憑性は、七支刀を贈られた当主(倭王旨)がどういう人物かを解明することに掛かっている。それは同時に、古賀さんが遷都先としている「水沼(みぬま)」に王宮の痕跡があるかどうかという問題でもある。いずれその問題にたどり着くだろう。
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