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513 認識論と矛盾論(4)
唯物弁証法による認識論
2006年5月29日(月)


 三浦さんが説く認識論のうち「真理と誤謬」の関係に的を絞ってその概略をまとめてみる。
 まず真理とは何か。
 現実の世界と正しく照応している認識を<真理>という。どんな観念論者でも自分が存在していることや自分が人間であることは疑わないだろう。そのとき、その認識は対象である自分との照応において真理と呼ばれる。

 「なんだ、当たり前のことじゃないか。」という感想が聞こえそうだが、もしそう思った人は唯物論的な思考に慣れているからで、「真理」という概念をこのようには考えない人の方がむしろ多いのではないかと思う。
 例えば『「真理」という言葉は、数学的真理とか物理的真理とかのことで、絶対的真理というような意味で用いられるものである。』という俗説がある。こういう理解と上のように定義した<真理>とはどう違うのだろうか。

 現実の世界と正しく照応している認識が真理だから、真理はア・プリオリに頭のなかにまず成立するわけでもないし、認識それ自体が真理と呼ばれる資格があるわけでもない。真理はあくまで、客体との関係において論じられなければならない。

 なによりもまず、統一された全体としての現実の世界がある。私たちはまず現実の中での活動を通して、その現実の世界のいろいろな個々の部分についての認識を得ていく。その認識には真理もあれば誤謬もある。誤謬を真理と思い違いをしていれば誤りであるが、それを誤謬と知っていれば正しい認識であり、有用である。

 また、個々の認識は現実の無限の世界の一部分のそれであり、さらに認識の主体である私たち自身の有限性に規定されて、それぞれの限界や制約を持っている。しかし私たちはそれらのさまざまな認識を観念的に結合し、個々の認識の限界を超えた新しい認識を得る。この新しい認識が真理であるか否かは結合の仕方いかんにかかっていて、個々の認識が真理でもそれを統一したものが真理とはかぎらない。ときには真理が誤謬に転化する。

 このような認識作用の過程をへながら、われわれの認識は体系化されていく。正しく体系化されたものをわれわれは科学と呼ぶ。哲学もやがては単なる解釈学から脱して、科学になるべきものと期待される。

 この体系的な認識は歴史を経るにしたがって現実的な世界のあり方にますます近接していく(ときには後退させてしまう者もあり、実際にはジクザクした進み方になる。)けれども、最終的には完結することはあり得ない。現実の無限の世界のあり方と認識の有限なあり方との間には常に矛盾が存在するのが当然である。しかし、だからこそ科学としての体系は常に発展進歩するわけである。

 数学的真理や物理的真理は絶対的真理だろうか。エンゲルスは「反デューリング論」でボイルの法則を取り上げて説明しているが、私は数学で説明してみよう。
 平面の幾何学では「三角形の内角の和は180°である」という認識は真理だが、球面の幾何学では三角形の内角の和は180°より大きくなり、その認識は誤謬となる。こういう意味で私たちの得る真理を相対的真理という。「三角形の内角の和は180°である」という認識が絶対的真理と言い得るのは「平面」という条件下にのみである。「絶対的真理」とはこういう意味である。

 上の例から「真理が誤謬に転化」するのは「認識の限界」を逸脱することによるのが分かる。二つの逸脱がある。
 一つは、 「対象のもつ限界を無視して、その限界を超えたところにまで認識の在り方を逸脱させる」誤謬。
 もう一つは「対象や認識のもっている限界を絶対化して、それらは超えられぬのだと逸脱させる」誤謬。

 相対的真理を定義すると「正しさの中にわずかではあるが修正の余地のある誤謬を含んでいる認識」と言えようか。
 また、弁証法的な思考においては、相対的真理の対立物として相対的誤謬という概念も重要である。相対的誤謬とは「正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多く含まれている」認識をさす。

 『相対的真理の総和が絶対的真理になる。』と思っている人も多いのではないだろうか。あにはからんや、「絶対的真理」というのは狭い条件下の真理なのだった。
 あるい形而上学者が頭からひねり出した閉ざされて硬直した体系を「絶対的真理」と呼ぶ人もいる。「究極の決定的真理」を約束したデューリング氏がその典型である。デューリングはエンゲルスの「反デューリング論」によって完璧に論破されたが、「デューリング氏」の再生産はいまだにやまない。
 ほとんどの宗教も「絶対的真理」を競い合っている。この場合は、真理がア・プリオリに頭のなかにまず成立している。

 ではデューリング氏の壮大な体系や宗教の理論は「絶対的誤謬」か。いな、それらは相対的誤謬である。いくらかは真理を含んでいるから、それらは容易には滅びない。誤謬は「常に観念を客体との関わりにおいてとらえながら物事を考え」ていくことによって止揚していくほかはない。
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