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512 認識論と矛盾論(3)
真理と誤謬
2006年5月28日(日)


 『ディーツゲンの著書には言葉づかいに不正確なところがあり、また理論としてもところどころに混乱があった。マルクスはディーツゲンの著作の原稿をみてそのことを認め、レーニンも具体的にそれらを指摘しているのだが、彼の偉大さを決して否定しはしなかったのである。』
 なぜか。と三浦さんは問うている。
 三浦さんは次のような例をあげている。

 算数の応用問題を10題、宿題としてあたえられた生徒が2人いる。一人は独力で解いたが、二題だけあやまった答を出した。80点である。いま一人の生徒は全然解きかたがわからなかったが、父親に解きかたを教えてもらって、全部正確な答を出した。100点である。結果としては、後者の生徒がヨリ正しい解答を示している。だから、彼のほうがすぐれた生徒である。

 すぐ異論が出るだろう。
 正しい答が多いか少ないかという外面的・現象的な点だけで優劣を比べると誤ることがある。この例の場合は自力で解いたのかどうかという観点から見れば明らかに80点の方の生徒が優れていよう。

 学者の業績や著作も同じである。著作にのべられた真理が多いか少ないかという、外面的・現象的な面をとりあげただけではその優劣は測れない。


 著作は手が機械的にうごいてつくられたものではない。そこには頭脳の 媒介がある。著作にのべられた真理は、現実の世界からくみとってこられたものであるから、著作と現実の世界のあいだには頭脳を媒介とした結びつきがある。真理が多ければ、それだけ現実の世界との結びつきも大きいことはたしかである。しかしそれは、著作者の頭脳が自力で現実からくみとって来たか、それとも他の者の頭脳がくみとったものをもらい受けたかと、直接の関係をもつものではない。ところが、学者としての優劣はこの自力か他力かに関係してくる。



 至極もっともなことだ。前回引用した「資本論・「第2版の後書」の文章の少し前のところに次のような記述がある。


 このようにして、資本主義的生産様式の対立的性格が、フランスやイギリスにおいてすでに歴史的闘争によって露呈され、人目をそばだたせるにいたった後に、ドイツでも、この生産様式は、成熟していつた。他方では、ドイツのプロレタリア階級は、すでにドイツのブルジョア階級よりはるかに決然たる理論的階級意識をもっていた。したがって、経済のブルジョア的科学がここに成立しえそうに思われたとたんに、それは再び不可能になってしまっていた。
 このような事情のもとで、ブルジョア経済学の代弁者たちは二つの隊伍に分かれた。一方の人々、すなわち利巧で金儲け好きで実際的な人々は、俗流経済学的弁護論のもっとも浅薄な、したがってもっともよく成功した代表者であるバスティアの旗のまわりに群がった。その科学の教授的品位をほこる他の人々は、ジョン・ステユアート・ミルに追従して、調和しうべからざるものを調和しょうと試みている。ドイツ人は、ブルジョア経済学の古典時代におけると同じように、その衰退の時代においても、まだ単なる生徒、受売りや追随者にすぎず、外国の卸商からもらってくる小行商人にすぎなかった。



 まるで欧米の学者の受け売りにかまけているだけの学者が多いこの国の現状を描いているようだ。

 また同じ趣旨のことを三浦さんが言っている。『いまの哲学者は、いったい独力で何を発見したであろうか? もしマルクスが現存していたら、「驚嘆に値いする」と賞められるような、立派な研究でも持ち合わせているのであろうか? ディーツゲンは、なめし皮工場の労働者であった。高等教育も受けなかったし、哲学の研究とても仕事の合間に行われたものであった。いまの哲学者は最高の教育を受け、研究によって生活している知識人である。それにもかかわらず、現に学問的にディーツゲンから後退してさえいるではないか。』と。

 さて本筋に戻るろう。
 著作は人間の主体的活動の産物だから、著作の優劣を論じるのであれば産物だけを取り上げるのではなく、活動そのものを検討しなければならない、ということだった。このことから得られる結論は次のようになる。

 一定の主体的条件においては「著作にのべられた真理の多少と学者としての優劣は一致する」という認識は正しいが、ある主体的条件においてはその認識は誤謬となる。

 この結論を論理的に一般化すると唯物弁証法の認識論となる。まず三浦さんが引用しているディーツゲンの論述を読んでみよう。


 真理はある一定の条件のもとにおいてのみ真理であって、ある条件のもとでは、誤謬がかえって真理となる。太陽は輝くということは、真実な知識である。ただし空が曇っておらぬことを前提としてである。まっすぐな棒は、水の流れに突っ込めば曲がるということも、もし視覚上の真理ということに限るなら、右に劣らぬほど真理である。……誤謬が真理とことなる点は、誤謬はそれがあらわしている一定の事実に対して、感覚的経験が保証する以上にヨリ広い、ヨリ一般的な存在を度はずれに認めるところにある。誤謬の本質は、逸脱ということである。ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。(1896年)



 同じ問題をエンゲルスは『反デューリング論』で次のように論じている。


 真理と誤謬とは、両極的な対立において運動するすべての思惟規定と同じく、まさに極めて限定された領域に対してのみ、絶対的な妥当性をもつ。われわれが真理と誤謬との対立を、右に述べた狭い領域以外に適用するや否や、この対立は相対的となり、従ってまた、正確な科学的な表現の仕方のためには役に立たなくなる。しかるにもしわれわれが、この対立を絶対的 に妥当なものとしてかの領域以外に適用しようと試みるならば、われわれはいよいよ破局に陥る。すなわち対立物の両極はその反対物に変り、真理が誤謬となって誤謬が真理となる。(1877年)



 このディーツゲンやエンゲルスの論述と凡百(観念論者や俗流唯物論者の)の認識論との際立った違いは誤謬の扱い方にある。誤謬に満ちた認識論の誤謬の根源は、皮肉にも、誤謬を真理と切り離して誤謬の分析を試みようとしない点にある。
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