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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(94)

地名奪還大作戦(22):飛鳥の雷岳=福岡県背振山脈の雷山(3)


 筑紫の雷山が235番歌の舞台だとすると、この歌はどのような意味になるだろうか。

「すめろぎは神にしませば」
 この雷山の上宮の祭神である神々、すなわちニニギノミコトや「天神七社」「地神五社」の神々は、(かつては生ある王者であったが)今や死者となり、「神」となっておられる。

「天雲の雷の上」
ほとんどの季節、天雲のおおうことの多い、この雷山、海が三方に近いこの山岳には、「天の宮」「雲の宮」と呼ばれる雷神社がある。そこに「すめろぎ」が祀られている。

「いほらせるかも」
この雷山の雷神社の上宮・中宮・下宮に、右の神々が祀られ、「社(やしろ)」としてまします。

 さらに、この歌には隠されたキイ・ポイントがあると、古田さんは次のように解説している。

 この歌のもつ特異性、それは「神が社に祀られている」こと、その実情を、「いほらせる」と、あたかも「人間の住居」のように表現している点だ。これはなぜか。

 ときは、七世紀末。白村江の敗戦のあとだ。多くの将兵は、百済の海中に没した。筑紫には唐の占領(進駐)軍が駐留していた。庶民の家々は荒れ、働き手(男)を失った庶民の生活はことごとく荒廃していた。一言でいえば、「民のいほりは荒れ果てていた」のだ。

 そのような荒廃した家々の間を通って人麻呂は雷山に登った。そこに「九州王朝の始祖」たるニニギノミコトをはじめ、「天神」や「地神」の社のみは、〝健全に″祀られていた。 ― その姿を歌った。その歌の背後には、「民のいほりは、荒れ果ててしまったが、…。」の余韻がこめられていたのである。

(「このような、人麻呂の「作歌法」は、この歌だけではない。」と言い、例として1798番歌を分析しているが略す。)

 ニニギノミコトたちは、九州王朝の始祖や歴代だ。その歴代の〝善き導き″のもと、民の「いはり」は安定し、生活を楽しんできた。それなのに今は、うって変った。誰の目にも明らかなように、倭国(「俀(たい)国」)のリーダー、九州王朝の君主たちは、大国唐朝との無謀な戦いに突入し、おびただしい自己の将兵を異国の海の藻くずと化せしめた。大量の血と汗を空しく没せしめたのである。そして残る遺族の、庶民の家々も、今やすっかり荒れ果ててしまった。見るにたえぬ。

 そのリーダーの責任を静かに問う目、そのような人麻呂の目を人々は感じないだろうか。わたしの目には、クッキリとそのように見えるのである。このような、この歌に対するわたしの感じ方は、果たして不当だろうか。

 ともあれ、わたしたちは、「珍妙」な、「ごますり」めいた歌などとは、とんでもない、全万葉集中にも、類を見ぬ、深い目指しの光の透き通る歌、そのような名歌を眼前にしていること、その一事は疑えない。わたしにはそのように思われるのである。

 九州王朝が無謀な戦争で滅亡してから約1300年後に、大日本帝国が同じ轍を踏んで人民を塗炭の苦しみに落とし込んだ。いま性懲りもなく、その大日本帝国のゾンビたちが増殖して、再度この国をあやまとうとしている。天皇制を無化しない限り、この国に真の平和はない。

 ところで、人麻呂の作歌とされる歌で、原文に「皇者」が含まれる歌がもう一つある。「長皇子(ながのみこ)猟路(かりぢ)の池に(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌」という詞書が付されている239番・240番の後に「或本の反歌一首」として掲載されている241番歌である。

訓読
皇(おほきみ)は神にしませば真木(まき)の立つ荒山(あらやま)中に海を成すかも
原文
皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞

 長皇子は「神でいらっしゃいますから、荒れた山の中に海を作おつくりになった」と歌ってる。「岩波」は「猟路の池を海に見立てている」と注記している。通説はこの池を香具山のふもとにある埴安の池に比定している。これも詞書通りに受けとれば、とんでもないオベンチャラのつまらない歌となってしまう。長皇子は天武の子。あくまでも「皇子」であり「おほきみ」ではない。この歌に付された詞書も大ウソである。

 この歌の古田さんによる訓読は
皇(すめろぎ)は神にしませば真木の立つ荒山中に海鳴りせすかも

 この訓読には「定説」とは際立った違いがある。原文「海成」を「海をなす」ではなく「海鳴り」と訓じている。「古田史学の会」会員の福永晋三さんの説に古田さんの蓄積された見識が即座に反応して、古田さんの採用するところとなったようだ。古田さんは海鳴りの後に起こった津波を目の当たりにした経験がある。

「海鳴り」
 暴風雨や津波襲来の前兆として海上から鳴り響いてくる音。うねりが海岸でくずれるために発生する。かいめい。(広辞苑)

 古田さんは、東京・高知・福岡などの気象台に問い合わせて得た知識や、NHKで永年気象問題を担当したベテランOBの方の話などを総合して、海鳴りについて次のようなことを明らかにした。


 海鳴りの原因は、波が海岸で空気を巻きこみ、これが沖合いで音響を発する因となっている。

 その音響が天空の厚い雲の層に衝突して反響し、その高度や角度によって、かなり遠方の内陸部にまで、到達することがある。たとえば、新潟県の沖合いに発生した海鳴りが、長野県の北部で「聞こえた」報告例があるという。

 福岡県の雷山は、三方(唐津湾、玄界灘、博多湾〉が海であるため、この種の音響(海鳴り)は十分に到達しうる。

 雷山には、玄界灘から、すさまじい風音を〝運ぶ″と信ぜられた「風穴」説話があるが、これも、右のような気象条件を背景としたものであろう。(法持聖、清賀上人にまつわる伝説)

   そして「さまざまの渉猟や現地調査を経た結果、「すめろぎは神にしませば」の先頭句を235番歌と共有する241番歌、この歌の舞台も九州背振山脈の雷山であると確信するにいたる。

 では241番歌はどのような意味をもった歌なのだろうか。

「ニニギノミコトたちは、今はすでに死者(神)となっておられますから、この真木(樹木の美称)のそそり立つ荒山の中に『海鳴り』として、その死者の声をとどろかせておられます。そしてその声は確かにわたしの耳へと伝わってきます。」

 現代人には、「台風や津波」の予兆としか聞こえぬ、そのとどろきは、単なる物理現象だ。だが、古代人たる人麻呂にとっては、そうではなかった。単なる自然現象に尽きるものでは、決してなかった。それは、他でもない。死者の声、死者が生あるわれわれに告げる声、その予告である。そのような形で受けとめていたのである。では、その予告とは、何か。

 一言で言えば、「王朝の滅亡の予告」だ。二二ギノミコト以来、つづいてきた九州王朝、その輝かしい歴史と伝統をもつ王朝は、今滅亡の寸前にある。異域の白村江へと出兵し、おびただしい艦船と将兵を海の藻くずと化せしめた王朝、その背後にあまりにもおびただしい庶民の家々の犠牲と亀裂と悲劇を巻きおこした王朝、その王朝にもはや滅亡の運命が近づいていること、その日の近いこと、それを予告する、死者の声だ。

 人麻呂は、そのとき、無気味に遠鳴りする海鳴りの中に、そのような、まざれもない「声」を聞き取っていたのではあるまいか。秀抜の歌だ。全万葉集中、これほど深い歌、人間の底の魂の歌をわたしは知らない。おそらく、全人類の産み出した詩歌の中にも、類い稀なのではあるまいか。

 従来はこれを、あくまで大和盆地周辺の、大和山地の中の作歌として理解したため、このような訓みを、およそ為しえなかった。ために、世にも珍妙なる、「阿諛の歌」として解する他に、道がなかったのである。

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この記事へのコメント
邪馬台国論争ゴール近し
「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡 - MSN産経ニュース
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091111/acd0911111059006-n1.htm

産経は遺跡発掘に関する記事、結構ありますが、無茶な書き方はしていないと思います。
古田説が重要な根拠としている九州と畿内に同一地名が多いことは神武東征を裏付けるものとなっている観があります。後は古代多元王朝説の孤塁をどう守るかが焦点でしょうか。
2009/11/11(水) 16:13 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
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