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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(83)

地名奪還大作戦(11):淡海の海=博多湾内?(3)


 新庄さんが『その上、「古事記」は博多湾のことを「近つ淡海」ともいっているのです。』と指摘しているので、それを調べてみた。

 『古事記』には「近つ淡海」が10例使われている。初出は序文である。太安万侶は条文で歴代大王の事績をたたえている。その中の若帯日子(わかたらしひこ 成務)と男浅津間若子宿禰(をあさづまわくごのすくね 允恭)の事績を述べている部分に「近つ淡海」だ出てくる。

 「成務記」の前後は「景行記」「仲哀記」である。この二つの記事は、『真説・古代史』の初めに取り上げたように、九州王朝の事績を盗用した説話がふんだんに盛り込まれた長いものである。これに対して「成務記」は、「岩波」でたったの5行の素っ気ないものである。短いので全文提示しておこう。

若帯日子天皇、近つ淡海の志賀(しが)の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、穂積臣等の祖、建忍山垂根(たけおしやまたりね)の女、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶して、生みませる御子、和訶奴氣(わかぬけの)王(一柱)。故、建内宿禰を大臣(おほおみ)と爲(し)て、大國小國の國造(くにのみやつこ)を定め賜ひ、亦國國の堺、及大縣(おほあがた)小縣の縣主(あがたぬし)を定め賜ひき。天皇の御年、玖拾伍歳(ここのそぢまりいつとせ 95歳 2倍年暦だから48歳)。(乙卯年三月十五日に崩りましき。】御陵は沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)に在り。

 若帯日子が国の境界を定め、國造や縣主を任命したと言っている。

 また、若帯日子は「近つ淡海の志賀」で天下を治めたとある。では「近つ淡海」とはどこだろう? 「定説」は「近江国滋賀郡」としたいので、「志賀」を「しが」と訓じているが、これは「しか」と読み、博多湾の「志賀島」とすべきである。その論証が今回のテーマである。

 次は「允恭記」。男淺津間若子宿禰(允恭)は仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略と続く「倭の五王」の時代のヤマト王権の大王である。『古事記』から必要な部分だけを転載する。

男淺津間若子宿禰命、遠飛鳥(とおつあすかの)宮に坐しまして、天の下治らしめしき。 (中略)是に天皇天下の氏氏名名の人等(ども)の氏姓(うぢかばね)の忤(たが)ひ過(あやま)でるを愁ひたまいて、味白檮(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前(さき)に、玖訶瓫(くかべ)を居(す)ゑて、天の下の八十友緒(やそとものを)の氏姓を定め賜ひき。

 男淺津間若子宿禰が様々な団体(八十友緒)の氏姓を定めたと言っている。

 この二つの事績を、太安万侶は次のように簡潔にまとめている。

境(さかい)を定め邦(くに)を開きて、近つ淡海に制(をさ)め、姓(かばね)を正(ただ)し氏(うじ)を撰(えら)びて、遠つ飛鳥に勒(をさ)めたまいき。

 若帯日子の時代も男淺津間若子宿禰の時代も、ヤマト王権は九州王朝に従属している一地方の豪族にすぎない。国造や県主を任命したり、氏姓を定めることができる分際ではない。これらは明らかに九州王朝の事績の盗用である。

 ここで私は、太安万侶が二つの事績を一つにつなげて、「近つ淡海」と「遠つ飛鳥」という対が、いやがうえにも目に付く書き方をしていることに注目したい。どこを原点にして「近い」とか「遠い」と言っているのだろうか。私はここで、太安万侶の出自は九州王朝ではないか、という思いがふつふつと沸いてきた。もしそうなら太安万侶は九州王朝の痕跡を様々に工夫して残しているのではないか、と。

 太安万侶の出自を論じている人はいないだろうかと、調べたら、いました。斎藤里喜代という方の「太安萬侶 その一 出自」という論文に出会った。太安万侶の出自が九州王朝であることを論証している。斎藤さんの論証の核心を紹介しよう。斎藤さんは「天智紀」の次の記事を取り上げている。

(661年)九月に、皇太子、長津宮に御(おわしま)す。織冠(おりもののこうぶり)を以て、百済の王子(せしむ)豊璋(ほうしやう)に授けたまふ。復(また)多臣(おほのきみ)蒋敷(こもしき)の妹(いろと)を妻(めにあは)す。乃ち大山下狭井連(さいのむらじ)檳榔(あじまき)・小山下秦造(はたのみやっこ)田来津(たくつ)を遣して、軍(いくさ)五千餘(いつちぢあまり)を率(い)て、本郷(もとつくに)に衛(まもり)り送らしむ。是に、豊璋が國に入る時に、福信(ふくしん)迎え来、稽首(をが)みて國朝(くに)の政(まつりごと)を奉(あげ)て、皆悉(ことごとく)に委(ゆだ)ねたてまつる。

 661年は九州王朝が白村江の戦いで惨敗する一年前である。人質の百済の王子に軍五千餘を付けて、百済の王にして送り返すことができる人物は、遠征中の天子の留守を預かり、全権を委ねられている九州王朝の皇太子以外に有り得ない。この記事は九州王朝の事績を「天智紀」にはめ込んだものだ。

 従って、多臣蒋敷は九州王朝皇太子の腹心の部下ということになる。その妹を百済王となる豊璋の妻としてスパイがわりにつけて、百済へと送った。斎藤さんはふれていないが、檳榔(あじまき)という名前から、軍の指揮者も九州王朝の将軍であること分かる。(「地名奪還大作戦(8):難波=筑前博多(5)」を参照してください。)

 また、多臣蒋敷について「岩波」の頭注は次のように述べている。

「和州五郡神社神名帳大略注解に引く久安五年多神社注進状には、太安麻呂の祖父とする(岩波日本文学大系『日本書紀・下』P.353頭注)。

 以上から太安麻呂は九州王朝の出である。

 なお、氏(うじ)名の「多」と「太」の関係については、斎藤さんの考察をそのまま引用しておく。

 「太」字は近畿王朝では「太宰府」にも許されなかった文字である。九州では今日でも、官公庁関係は「大宰府」、地元では「太宰府」と争っている。

 「太氏」も安萬侶の登場までは「多氏」であり、宝亀元年十月以後再び「多氏」に戻ると『続日本紀』補注3・三〇にある。

 私は「多氏」ではなく「太氏」が本当の字ではないかと思っている。そして「安萬侶」の「萬侶」表記も、九州王朝ではざらにあった表記ではないかとあたりをつけた。
 さて、太安万侶は飛鳥(奈良)で『古事記』の編纂をしている。常識では「近つ飛鳥」・「遠つ淡海」(「淡海」が「近江」だとしても)でなけれればなるまい。しかし、太安万侶にとって原点は筑紫(ちくし)。「近つ淡海」であり「遠つ飛鳥」でなければならない。

 『古事記』本文に「近つ淡海」が初めて現れるのは「大年神の神裔」の段である。

次に大山咋(おおやまくいの)神、亦の名は山末之大主(やますゑのおほぬしの)神。この神は、近つ淡海国の日枝(ひえ)の山に坐し、また葛野(かつの)の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を用(も)つ神なり。

 「定説」では「淡海=近江」であるから、「日枝の山」を比叡山とし、大山咋神を祀っているのは近江国滋賀郡日吉神社であるとしている。(「日吉」は「ひえ」と読む場合も「ひよし」と読むこともある。)

 「近つ淡海=筑紫」に大山咋神を祀っている神社はあるか。吉野ヶ里の平面図をもう一度掲示する。

吉野ヶ里平面図
(クリックすると大きくなります。)

 図の左側、外濠と一キロ甕棺との間に日吉神社がある。祭神は、もちろん大山咋神。

 さて、冒頭に紹介した新庄さんの文章は次のように続く。

 では余談ながら「遠つ淡海」とはいずれかと問えば、ありました。『古事記』に対馬の県の直「遠つ江」の国造の祖なりとありました。これは思うに対馬の天神発祥の地、浅茅湾のことをいうのではないかと思い至りました。この時代は浅茅湾のことを、「遠つ淡海」といったのではないかと思います。

 これは残念ながら新庄さんの誤読。ここで新庄さんが利用しているは『古事記』の「天の安河の誓約」の段の次のくだり。

此の後に生まれし五柱の子の中、天菩比(あめのほひの)命の子、建比良鳥(たけしらとりの)命(此は出雲國造、无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直、遠江國造等が祖なり)

 「直(あたい)」も「国造(くにのみやっこ)」も「姓(かばね)」であり、津嶋縣直と遠江國造は別人として併記されている。これを新庄さんは「津嶋縣直が遠江國造」と誤読した。従って、新庄さんの説は成り立たない。しかし私は、ここで一つ気づいたことがある。新庄さんはいま参考にしている論文の冒頭で

「淡海」とは今でも滋賀県近江と理解されています。近江と書いてどうして「オオミ」と読めるのでしょうか。「キンコウ」か「チカエ」としか私には読めないのですが、頭の悪いせいでしょうか。

と誰もが不審に思っていることを率直に述べている。上の『古事記』の一文から、私は「近江」という表記が作られた経緯が分かったと思った。

 『古事記』では「遠江」が現れるのは上記の原注の中だけで、後どこにもない。もちろん「遠つ淡海」もない。「岩波」は頭注で「原注」内の国々の読みとその国の比定を行っているが、「出雲」と「遠江」には注がない。この二国は注を付けるまでもないということだろう。つまり、「遠江」は「とおとおみ」と読むのだというわけだ。しかし、「近江」とおなじで、これは「トオエ」とか「トオツエ」としか読めない。

 8世紀の吏官は次のように考えた。
 「近つ淡海」があるのだから「遠つ淡海」があってもよいはずだ。しかし、いくら探してもない。「遠江」が似ている。それを「遠つ淡海」ということにしよう。そうすると逆に、「近つ淡海」を「近江」と書かなければつじつまが合わない。従って「近江」は「ちかつおうみ」、略して「おうみ」と読むことになる。
 これは単なる憶測に過ぎないが、当たらずといえども遠からず、ではないだろうか。

 ちなみに、『国造本紀』には「遠江国造」はない。代わりに「遠淡海国造」がある。もちろん「近江国造」や「近淡海国造」はなく、「淡海国造」がある。

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