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《「真説・古代史」拾遺編》(80)

『魏志倭人伝』の和訳文(3)


 景初二年六月(237)、倭の女王は、大夫の難升米(なんしようまい)らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。太守の劉夏(りゅうか)は役人と兵士をつけて京都(みやこ)まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書(みことのり)が下された。

「親魏倭王・卑弥呼に制詔(みことのり)を下す。帯方太守の劉夏が使者をつけて汝(なんじ)の大夫の難升米、副使の都市牛利(としぎゅうり)を護衛し、汝の献上物、男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布(はんぷ)二匹二丈を奉じてやってきた。汝ははるか遠い土地におるにもかかわらず、使者を送って献上物をよこした。これこそ汝の忠孝の情のあらわれであり、私は汝に大いに心を動かされた。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬(しじゅ)を仮授するが、その印綬は封印して帯方太守に託し、代って汝に仮授させる。汝の種族のものたちを鎮(しず)め安んじ、孝順に努めるように。汝の送ってよこした使者、難升米と牛利とは、遠く旅をし途中苦労を重ねた。いま難升米を率善(そつぜん)中郎将となし、牛利を率善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜品を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地(コウチ)交龍文の錦五匹、絳地縐粟罽(スウゾクケイ 毛織物)十張、蒫絳(センコウ つむぎ)五十匹、紺青(コンジョウ)五十匹をもって、汝の献上物への代償とする。加えてとくに汝に紺地句文(コウジコウモンキン)錦三匹、細班華罽(サイハンカケイ 毛織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹(エンタン)おのおの五十斤ずつを下賜し、みな箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、帰ったあと目録とともに汝に授ける。これらのすべてを汝の国中の者たちに示して、朝廷が汝らに深く心を注いでいることを知らしめよ。それゆえことさらに鄭重に汝に良き品々を下賜するのである。」

 正始元年(240)、帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らをおくり、詔書と印綬とをたずさえて倭国に行くと、倭王に位を仮授し、同時に詔とともに金帛、錦罽(キンケイ)、刀、鏡、采物(サイブツ 身分をあらわす采〔いろどり〕のある旗や衣服)を下賜した。倭王はその使者を通じて上表し、厚い詔に対する感謝の気持を表わした。
(卑弥呼に詔書を与えた明帝は景初三年正月に急死した。その喪があけてから、魏使が倭国に遣わされた。)

 同四年、倭王はふたたび大夫の伊声耆(いせいき)、掖邪狗(えきやこ)ら八人を使者に立てて、奴隷、倭錦(ヰキン)、絳青縑(コウセイケン)、緜衣(メンイ)、帛布(ハクフ)、丹(タン)、木〔犭付〕(モクフ)、短弓矢(タンキュウシ)を献上した。掖邪狗らはそろって率善中郎将の印綬を賜わった。

 同六年、詔があって倭の難升米に黄色の幢(ドウ 旗さしもの)が下賜され、帯方郡を通じて仮授された。

 同八年、〔弓遵が韓との戦いで戦死して後任の〕太守の王頎(おうき)が帯方郡に赴任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男子の王・卑弥弓呼(ひみこか)ともともと不和だったのであるが、二国の間で戦闘が行なわれているということを、倭載(ゐさい)・斯烏越(しおえつ)らを帯方郡に派遣して、報告させた。帯方郡から塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちようせい)らが遣わされ、そのついでに〔六年に下された〕詔書と黄色の幢をたずさえて難升米に仮授するとともに、檄文(ふれぶみ)によって両国が和解をするよう教えさとした。

 卑弥呼が死ぬと、大規模に冢(チョウ 塚)が築かれた。その直径は百余歩(30~35メートル)。奴碑百人以上が殉葬された。つづいて男王が立ったが、国じゅうの者が服従せず、殺し合いがつづいて、このとき、千人以上の死者が出た。そこで卑弥呼の血族の娘、十三歳の壹与(いちよ)が王として立てられ、国の中もやっと安定した。張政らは檄文によって壱与に立派に政治を行なうよう教えさとした。

 壹与は、倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗ら二十人を遣わして、帯方郡へ帰る張政らを送らせた。使者たちはそのまま帯方郡から中国の朝廷におもむいて男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠(コウジュ めのう)二個、異文(イモン)の雑錦二十匹を貢物としておさめた。

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 以上で「魏志倭人伝」は終わりです。最後に、『「邪馬台国」はなかった』から、邪馬壹国や壹与の「壹」の字の意義についての論考を取り上げよう。ここでも古田さんの論理に遺漏はない。「邪馬壹国」→「邪馬臺国」という「改定」のバカバカしさをさらに際立たせている。

 「壹」という字には「天子に対し、二心なし」という意味が込められている。それには歴史的由来がある。まず、禹のはじめた夷蛮統治の基準「五服」の制の中で用いられ、それは周代に「六服」「九服」の制としてうけつがれた。この古制は、陳寿の「東夷伝序文」にも最初に特記されている。

「六服」(『周礼』秋官、大行人)
 邦畿は方千里、其の外は方五百里、之を侯服と謂ふ。歳に壹見す。其の貢は祀物。
 又、其の外、方五百里。之を甸(でん)服と謂ふ。二歳に壹見す。其の貢は嬪(ひん)物。
 又、其の外、方五百里。之を男服と謂ふ。三歳に壹見す。其の貢は器物。
 又、其の外、方五百里。之を采服と謂ふ。四歳に壹見す。其の貢は服物。
 又、其の外、方五百里。之を衛服と謂ふ。五歳に壹見す。其の貢は材物。
 又、其の外、方五百里。之を要服と謂ふ。六歳に壹見す。其の貢は貨物。


 このように、諸侯・夷蛮が中国の天子に貢献することを「壹見」の用語をもってあらわしている。このような『周礼』の用字法は、のちの史書にもうけつがれた。

三歳に壹朝す。(『漢書』西南夷両えつ朝鮮伝)
数歳に壹反す。(『漢書』地理志)
数年にして壹至す。(『漢書』西域伝)


 夷蛮の王の、中国の天子に対する貢献について、いずれも「壹」字を用いた熟語で表現している。

 「倭人伝」中にも、この歴史的由来を負うた用字法が用いられている。

其の四年、倭王、復た使大夫伊声音・掖邪狗等八人を遣はし、・・・掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。

 これは、倭人が禹の遺制・感化を守り、「中国正統の天子」にむかって「遠夷朝貢」してきたことを表す記述である。

 こうした「壹」の字の意義に対して、『三国志』において、一番憎悪された文字として「貳(に)」が使用されている。「壹」に対して、「二心あり」という意味合いである。魏の同時代は、三国相対立し、離反・内応が絶えることのない状況にあった。この「貳」を悪徳としてにくむ時代背景があったのだ。したがって、『三国志』中には、この文字が頻出している。古田さんは8例抜き出している。

(1)
 今仁等、重囲の中に処(お)りて死を守りて貳無き者なり。<魏志〉
(2)
 欽も亦感戴し、心を投じて貳無し。<魏志〉
(3)
 比能は別の小帥瑣奴(さぬ)をして豫(よ)を拒ましむ。豫進んで討ち、破りて之を走らしむ。是に由りてを懐く。〈魏志〉 (4)
 其の国を挙げ、孤を諸葛亮に託するに及びて、心神貳無し。〈蜀志〉
(5)
 民夷、業に安んじ、或(うたが)ひ、攜貳(けいじ そむきはなれる)する無し。〈呉志〉
(6)
 姦讒(かんざん よこしまにそしる)、並び起り、更に相陥懟(かんたい おとしいれ、うらむ)し、転じて嫌貳(けんじ うたがう)を成す。〈呉志〉
(7)
 孫綝(そんりん)、政を秉(と)り、大臣疑貳(ぎじ うたがい、はなれる)す。〈呉志〉
(8)
 甘心景従、衆、攜貳する無し。〈呉志〉


 三国時代の支配者がいかに臣下や被統治階級の「貳」をおそれ、不安としていたかがありありとあらわされている。もちろん現在でも、どこの国でも、支配階級は常に被支配階級の抵抗権行使におびえて、それに対する弾圧に心を砕いている。

 このように警戒され、排斥された〝悪徳″である「貳」の反対語が「壹」である。すなわち、「貳無し」にとどまらず、積極的に臣下最上の徳目をしめす言葉こそ「壹」にほかならない。「貳」がいつも警戒されねばならない政治状況下において、倭国の「遠夷朝貢」が魏朝の特別の歓迎をうけたのもむべなるかなである。中国の天子に対する倭王の二心なき忠誠心が、『周礼』の「六服 - 壹見」以来の由緒深い「壹」の字をもって、賞揚されたわけである。

 「遠夷朝貢」を賞されて、「壹」の字を名前に付されたのは「壹与」だけでない。『魏略』に次の一文がある。

 西且弥(しょび)国・単桓(たんかん)国・畢隆(ひつりく)国・蒲隆(ほりく)国・烏貪(うどん)国、皆、車師後部王に并属(へいぞく)す。王、干頼(うらい)城に治す。魏、其の王壹多雑(いちたざつ)に守魏侍中を賜ひ、大都尉と号せしめ、魏王の印を受けしむ。

 周辺の国々を統属し、朝貢してきた車師後部の王に対し、「壹与」と同様に、魏朝は「壹多雑」と「壹」の字を与えている。東西、軌を一にしている。

 前者は「多雑」=「各種の小国」、後者は「与」=「幾多の与国」の字に頭に「壹」字が付されている。すなわち、それらを統属して、魏晋朝の天子に対し、二心なく忠節をつくしてきた、という意義があらわされている。

 このようにしてみると、東夷伝中「天子にむかって二心なき朝貢」という事実が特筆大書された倭国(「東夷伝」で天子からの長文の詔書が下されたのは倭国だけである。)に対し、「邪馬壹国」という表記が用いられたのは、けっして偶然ではない。

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この記事へのコメント
なるほど
>このようにしてみると、東夷伝中「天子にむかって二心なき朝貢」という事実が特筆大書された倭国(「東夷伝」で天子からの長文の詔書が下されたのは倭国だけである。)に対し、「邪馬壹国」という表記が用いられたのは、けっして偶然ではない。







そうですか?

わかりました。
2009/07/13(月) 10:44 | URL | ウェルダン穂積 #1jhbtX.k[ 編集]
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