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《「真説・古代史」拾遺編》(79)

『魏志倭人伝』の和訳文(2)


 倭国では男子は、大人も子供も、顔や身体に入れ墨をしている。周時代ころから、倭国の使者が中国にやってくるときには、みな自分のことを大夫(たいふ)と称している。夏(か)王朝の主君であった少康(しょうこう)の息子が会稽に封ぜられたとき、民が蛟龍(こうりゅう)の害に悩んでいたので、髪を切り身体に入れ墨をして、蛟龍の害を避けさせた。いま倭の水人(あま)たちは盛んに水に潜って魚や蛤(かい)を捕っているが、身体に入れ墨をするのは同様に大きな魚や水禽(すいきん)を追いはらうためであって、それが後にだんだん飾りとなったのである。国ごとに入れ墨がそれぞれ異なり、左がわにあったり右がわにあったり、あるいは大きかったり小さかったりし、尊卑による区別がある。

 倭までの道のりを計ってみると、会稽東治(とうち)の東方に位置する。

会稽の東

 その風俗は淫らではない。男子は冠をつけず、木綿で頭をしばって髷を作る。その着物は横に幅広いきれをただ結び合わせるだけで、縫い合わせたりすることはほとんどない。女子は、ざんばら髪でその一部をたばねてまがった髷を結い、着物は単被(ひとえ)のようなものの中央に穴をあけ、その穴に首を通して着るだけである。

 禾稲(かとう 稲)や紵麻(ちょま 麻)を植え、蚕をかってそれを糸に紡(つむ)ぎ、目の細かい紵(ちょ 麻布)や縑嫌緜(かとりぎぬ)を産出する。その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鴇(かささき)はいない。兵器として、矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短くて上が長く、竹の箭(やがら)に鉄製の鏃(やじり)をつけたり骨製の鏃をつけたりする。こ地の産物は、儋耳(たんじ 広東省内の郡名)や朱崖(しゅがい 広東省内の郡名)と同じである。

 倭の土地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べ、誰もがはだしである。ちゃんとした家に住み、父母兄弟で寝間や居間を異にしている。朱や丹をその身体に塗るが、それはちょうど中国で白粉を身体に塗るのに用いるのと同様である。飲食には?籩豆(へんとう たかつき)を用い、手づかみで食べる。

 死ぬと、棺に収められるが槨(かく)はなく、土をつんで冢(ちょう 塚)を作る。死ぬとすぐ十日余り喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は哭泣し、ほかの者はそのそばで歌ったり踊ったりして酒を飲む。埋葬が終ると、家じゅうの者が水中に入って身体を洗う。その様子は中の練沐(れんもく)とよく似ている。

 倭の国の者が海を渡って中国と往来するときには、いつも一人の者をえらんで、髪の手入れをせず、しらみも取らず、衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じすい)と呼ぶ。もしその旅が無事であれば、皆でその者に家畜や財物を与える。もし病気が出たり、思いがけない災害にあったりすれば、人々はその者を殺そうとする。彼の持衰が充分に謹しみ深くなかったために事故が起ったという理由からである。

 真珠・青玉が産出する。山には丹がある。木材には枏(だん クス)・抒(ちょ トチ)・予樟(クスノキ)・楺(ぼう)・櫪(れき)・投・橿(きょう)・烏号(うごう ヤマグワ)・楓香(オカツラ)がある。また竹には篠、簳(かん)、桃支(とうし)がある。薑(きょう ショウガ)、橘、椒(しょう サンショウ)、蘘荷(じょうか ミョウガ)などが生えるが、それらが滋味であることを知らない。獮彌猴(びこう オオザル)や黒雉(こくち)がいる。

 その地の風習として、なにかを始めたり旅行をするときなどは、必ず骨を焼いて卜(ぼく)し、吉凶を占う。卜に先だって占う内容を告げるが、そのときの言葉は中国の命亀(めいき トに先だって占いの内容を亀甲に告げる)の法と同じで、焼いてできた割れ目を見て吉凶の兆を占う。

 倭人の会合の場での席次には、父子や男女の区別がない。人々は生れつき酒が好きである。大人に敬意を表すときにも、ひざまずいて拝する代りに拍手をするだけである。

 人々は長生きをし、百歳だとか八、九十歳の者もいる。
(裴松之〔はいしょうし〕の注がある。「魏略に曰(いわ)く『其の俗、正歳四節を知らず。但々(ただただ)春耕、秋収を計りて年紀と為す』」いわゆる「2倍年暦」である。50歳と45歳とかで、弥生人の人骨がしめす実際の寿命とよく符合している。)

 風習として、国の大人たちは四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人たちは身もちがよく、嫉妬することもない。盗みをせず、訴訟ざたは少ない。法を犯す者がいると、軽い場合にはその妻子を没収し、重い場合には一門全体が根絶やしにされる。尊卑についてはそれぞれ序列があって、その関係はよく守られている。

 租税や賦役の徴収が行なわれ、その租税を収める倉庫が置かれている。国々に市が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行なわれて、使大倭(したいゐ)がその監督の任に当っている。

 女王国より北の地域には、特別に一大率(いちだいそつ 検察機関)が置かれて、諸国を監視し、諸国はそれを畏れている。一大率は常に伊都の国にその役所を置いている。国々には中国の刺史(しし)のような役割を果たす行政官がいる。

 倭王が京都(みやこ)や帯方郡や韓の国々へ使者をおくる場合、あるいは逆に帯方郡からの使者が倭に遣わされるときにはいつも港で荷物を広げて数目を調べ、送られる文書や女王のもとにもたらされる賜わり物にまちがいがないように点検をする。

 下戸の者が道で大人に会うと、後ずさりをして草の中に入り、言葉を伝えたり説明したりするときには、うずくまったりひざまずいたりして、両手を地につき、大人に対する恭敬を表わす。答えるときには「噫(あい)」といい、中国で承知しましたというのとよく似ている。

 その国では、もと男子が王位について七、八十年(これも2倍年歴)もつづいたが、その王がなくなった後、倭の国々に戦乱がおこって、互いの戦闘が多年(7,8年)続いた。そこで国々は一人の女子を王として共立した。その者は卑弥呼(ひみか)と呼ばれ、鬼道をよくし、人々の心をつかんだ。彼女はかなりの年齢になっても、夫はなく、その弟が国の統治を輔佐した。王位に即いて以来、彼女に目通りした者はほとんどない。千人の侍女を自分のまわりに侍(はべ)らせ、男子がただ一人だけいて、飲食物を運んだり、命令や言上の言葉を取り継いで、居処に出入りした。宮室や楼観や城柵がいかめしく設けられている。そして常に武器を持った兵が守衛に当っている。

 女王国から東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。さらに侏儒(しゅじゅ)国がその南にあり、そこの者は身の丈が三、四尺、女王国から四千余里の距離にある。裸国(らこく)・黒歯(こくし)国がさらにその東南にあり、船で一年の航海(2倍年歴なので実日程は「船行半年」)をしてそこに行きつくことができる。

五点論証
(侏儒国・裸国・黒歯国を真正面から取り上げた人は、古田さん以外にいない。下に、『古代史の未来』から関係の2章を転載する。)
(画像はクリックすると大きくなります。)


 いろいろな情報を総合してみると、倭の地は、大海中の孤立した島の洲の上にあって、国々は連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。


五点論証 ― 倭人伝は南米大陸まで記述している

 倭人伝にまつわる重要な論証として、《五点論証》について確認しておこう。

 倭人伝の目的は「裸国・黒歯国」の記述にある。「女王国(邪馬壱国)」は途中経過地に過ぎない。実際、倭人伝に特記された行路記事は女王国で終結してはいない。「(侏儒国)女王を去る四千余里」の一句がある。これが不可欠のキイ・ワードだ。

 ここで、倭人伝内の行路記事の筋道を記そう。

A 洛陽から帯方郡まで
 魏・西晋朝には周知の行路範囲だから、歴史書にはあえて書く必要がない。
B 帯方郡から女王国まで
 一万二〇〇〇里(各部分里程も併記)。
C 女王国から侏儒国まで
 四〇〇〇里。
D 侏儒国から裸国・黒歯国まで
 船行一年。

 すなわち、倭人伝の目的は「洛陽から裸国・黒歯国までの全行程を記す」ことにあった。史記・漢書が大宛列伝や西域伝によって西方への行路を記し、「日の没する処に近し」に至っているのに対し、三国志は「日の出づる処」に当たる〝東の果て″への行路を記すことを目指したのだ。

 簡略化すれば、倭人伝には五つの原点が存在すると言える。
第一原点
 洛陽(「臺に詣る」倭人伝末尾)
第二原点
 帯方郡(「郡より倭に至る」倭人伝冒頭)
第三原点
 女王国(邪馬壱国)
第四原点
 侏儒国
第五原点
 裸国・黒歯国

 これが《五点論証》であり、倭人伝の骨格をなしている。すなわち「侏儒国」「裸国・黒歯国」を主柱に据えずしては〝倭人伝を論じたことにはならない″のである。

 さらに重大な視点がある。倭人伝に、「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」と記されている。「千余里」の地は「短里」であるから、関門海峡付近だ。だから「皆倭種」とは、瀬戸内海領域のこと、そう考えてきた。しかし、一昨年以来、新たな概念へと進んだ。「侏儒国」も「裸国・黒歯国」も、「皆倭種」なのではなかろうか、と。

 後述の《四柱論証》、第-にエバンズ説、第二に私の説、第三にアラウージョ説、第四に田島説、そのいずれもの帰着するところ、それは当地(南米北・中部)の原住民(インディオ)が日本列島人と〝血縁の人々″であることを示していた。とすれば、右の新概念もまた、一笑に付し得ないのではあるまいか。


黒潮 ― 縄文人が太平洋を渡った〝四つの証拠″

 倭人伝の中に女王国(邪馬壱国)以外に「短里」で指定されている、唯一の重要な国がある。「侏儒国」だ。この国は二つの文脈で指定されている。

A
 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり」
B
 「人の長(た)け三・四尺、女王を去る四千余里」

 右の二つの情報を「短里」で理解すると、「千余里」の地は関門海峡、「四千余里」の地は足摺岬近辺(高知県)となる。そして倭人伝には、この「侏儒国」を原点として、〝東の果て″なる「裸国・黒歯国」への行路が描かれている。

「またその東南にあり。船行一年にして至るべし」

「一年」は「二倍年暦」で半年に当たる。日本列島とサンフランシスコの間が約三カ月前後のコースであることは、すでにくりかえされた航海実験によって知られていた。したがって黒潮に乗じて六カ月行くところ、それは南アメリカの西海岸北半部、エクアドル・ペルーの地である。これが私の判断だった。

 この帰結が得られたのち、私は先行研究者の存在を知った。エストラダ(エクアドル)・エバンズ夫妻(ワシントンDC、スミソニアン)の研究である。エクアドル・バルディビア遺跡出土の土器群が日本列島の九州や三浦半島(関東)の縄文土器と類似していることから、「縄文人の南米渡来」学説を出していた(1965年)。

 さらに1980年、ブラジルの寄生虫学者、アラウージョやその共同研究者フェレイラ(1983、88)の論文により、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラ(3490~3440年前)の糞石中の寄生虫がアジア原産、ことに日本列島に多い種属であったことが報告された。ベーリング海峡経由では(気温が22度以下のため)生息不可能のため、エバンズ説が支持されることになった。

 さらに1994年、名古屋のガン学会でHTLV・I型のウイルスに関する田島和雄氏の研究が発表された。それによると、日本列島太平洋岸(沖縄・鹿児島・足摺岬近辺・和歌山・北海道)に分布する一方、南米北・中部のインディオに分布している。つまり、両者、共通の祖先をもつことが判明した(中国・韓国・ミクロネシア・ポリネシア等になし)。

 ここでエバンズ説・古田説・アラウージョ説・田島説は、それぞれ独立であり、別個の研究目的、各別の素材、別々の研究方法に由っている。

 すでに私の研究において「侏儒国 ― 裸国・黒歯国」間の行路記載が黒潮の起点(足摺岬は黒潮がアジア大陸の尖端部に当たる日本列島唯一の接触点)から終着点(北上するフンボルト大寒流と衝突し、大暖流・黒潮は終結する)に当たっていた。この自然原理との合致に注目すれば、これを軽視あるいは無視してきた多くの「邪馬台国」論者は、あまりにも怠慢だったという誹りをまぬがれないのではあるまいか。

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