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《「真説・古代史」拾遺編》(76)

「邪馬台国」論争は終わっている。(15)


吉野ヶ里の中心人物(1)

 女王卑弥呼(ひみか)の居処は春日市(須玖岡本)近辺である。では吉野ヶ里を治めていた中心人物は誰か。前々回、吉野ヶ里遺跡の特徴を概観したが、その中の墳墓と甕棺(みかかん)について、今度は詳しく見ていこう。そこから吉野ヶ里の中心人物の姿が浮かび上がってくるだろう。古田さんの推論をたどっていこう。

吉野ヶ里全図
(クリックすると大きくなります。)

 環濠集落(内濠に取り囲まれた住居址)が、AとBと二つある。

 Aのほうがやや古いが、ほとんど未発掘である。かなり畑地として“荒らされ”ていて、発掘不能の部分が多く、将来もあまり期待できない。

 Bの方は、やや新しく、弥生後期のものとされている。南北約160メートル、東西約70メートル。その中の約五割弱が発掘されていて住居の戸数は約100戸。未発掘部分をふくめると数百戸にも及びそうだ、といわれている。その外濠の内側の中枢に墳丘墓がある。(南にも、もう一つの墳丘墓のある可能性が指摘されているが、未発掘。)

 この墳丘墓の前(南側)には、二列の甕棺のつらなりがつづいている。古田さんはこれを「参列甕棺」と呼んでいる。逆の側(北側)にも同類の列があるようだが、すでに破損をうけ明確にはしにくいという。

 さて墳丘墓。この墳丘墓の甕棺の一つから有柄(ゆうへい)銅剣の出土した。その形から、古田さんはこれを「十字剣」と呼んでいる。この甕棺からは、さらに2個のガラスの管玉(くだたま)が出土していた。管玉の出土数はふえつづけ、約70個にも達している。その中には、長さ約6.6センチの、従来の管玉中、最長のものまでふくまれている。

 この甕棺の出土位置は墳丘墓の真ん中から、やや西寄りにずれている。したがって、この甕棺の人物は中心者ではない。しかし、この十字剣の甕棺の人物は、明らかに“将軍クラス”だ。その“将軍クラス”の人物を配下にもつ人物、それは倭王、もしくは“副王クラス”の人物でなければならない。

 果たして、墳丘墓の中心の奥深くに巨大な甕棺が横たわっていた。周辺の甕棺(それも、墳丘墓の一部)と比べて、墓壙(ぼこう 甕棺を埋納するために掘りこんだところ)が三~四倍も大きい。そして、この中心甕棺の周囲に、点々と数個の甕棺が見いだされている。その中の二つから、それぞれ細形銅剣、および細形銅剣と十字形の把頭飾(はとうしょく)が出土した。いずれも、優品である。

 細形銅剣が対馬・壱岐から、唐津・糸島・博多湾岸(福岡市・春日市・太宰府市・筑紫野市)さらに朝倉・東脊振(ひがしせぶり)といった地帯に多く分布していることは知られている。また後者のセットは、長崎県の対馬、シゲノダン遺跡、福岡県の福岡市西区の吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡に次ぐ、三例目だという。

 もう一つ、古田さんの目を奪ったものがある。総計2300個の甕棺の大海だ。いままでにのべたもの以外に、外濠内の甕棺群がある。これも、参列甕棺と同じく、二列に並列している可能性もあるけれど、よく分かっていない。

 ここまでをまとめると

〈その一〉墳丘墓(外濠内)
〈その二〉参列甕棺(外濠内)
〈その三〉その他の甕棺(外濠内)
〈その四〉一キロ甕棺(外濠外)

 これら各甕棺のしめす「身分階層」のちがいは何か。古田さんは次のように推定する。

〈その一〉支配の頂点に立つ人々。その人々は、墳丘墓に葬られた。
〈その二〉“死しても、主君の御前に”そういった感じだ。これは彼等の、生前の「生きざま」や身分を反映しているだろう。
〈その三〉。上の人々につづく身分。もし、右と連続したつらなりだった、としても、こちらより、「墳丘墓の直前の人々」のほうが、“生前も、死後も”上位にあること、当然だ。〈その四〉間に“谷あい”があるから、実質、900メートルくらい。だが、これは、重要な甕棺列だ。なぜなら、この存在によって、上の〈一〉~〈三〉が、全体の社会構造の中で「上位」に立つ。そのことがしめされているからだ。彼等は、外濠の内側に、葬られることができない。そしてこの一キロ内には、金属器なく、ただ、ゴホウラ(沖縄の南海で産する貝)の貝輪(かいわ)が出てきている。

金属器人間と、ゴホウラ人間と、この二つの層が、外濠によって、画然と区切られている。当時の社会構造の仕組みが浮きぼりになっている。

 だが、問題はここで終わらない。なぜなら、当時、こんな大型の土器、甕棺の中に葬られる人々、その資格のある者は、少数だからだ。大多数の人々、いわゆる庶民は、甕棺にも入れてもらえず、土中に“素(す)のまま”で葬られたであろう。

 今回出土した2300の甕棺中、人骨の出てきたのは、約300。他はみな、“蒸発”してしまっている。日本列島の風土では、よほど条件に恵まれなければ、人骨は“消え去って”しまう。だから、“素のまま”埋められた人骨は、とうぜん消え去っている。

 下には、下がある。奴婢や生口(せいこう 捕虜)だ。彼等の遺体の運命は、まず分からない。まとめて、堀か溝か谷あいか、そんなところに投げこまれたことだろう。「奴婢」とか「生口」とか、「名」だけ残して、考古学的探究の対象としては“消え失せ”ている。

 「倭人伝」には、ハッキリと、倭国の「階層秩序」が描かれている。
 第一、女王。卑弥呼は「共立」された、と書かれている。
 第二、有力大人。前に、男王がいて、「在位70~80年」に及んだという。「二倍年暦」だから、「35~40年」。その男王が死んで、後継ぎ争いの「倭王」候補者が対立した。決着がつかず、倭王候補者が妥協して、卑弥呼が共立された。
 第三、一般大人。各30国の中の、支配層であろう。
 第四、有力下戸。下戸の中にも、「一夫多妻」の者が出ていたという。経済活動で富をたくわえた者であろう。
 第五、一般下戸。いわゆる、庶民である。
 第六、奴婢。
 第七、生口。

 弥生時代とは、「落差の時代」だ。、大陸伝来の金属器をもつ者と、縄文以来の金属器なき者。戦争すれば、前者が勝つ。もちろん、個々の戦闘ではいろいろだろう。だが、結局は「金属器をもつ」者の側が勝つ。

 一方、当時は稲作の時代。際限なき肉体労働を必要とした。生産力をあげようと思えば、方法は一つ。人間の数をふやすことだ。どうしてふやす。攻めることだ。「金属器なき民」を襲撃し、これを「捕獲」し、奴隷として「労働力」にくりこむ。そして、奴隷たちは、死しても金属器をもたず、甕棺にも入れられず、“消えて”しまった。

 以上が、倭人伝のさししめす七層の過酷な階層社会。この社会構造を、吉野ヶ里遺跡が見事に示している。つまりここでも、「倭人伝」の記述が「リアル(真実)」であることが示された。(続く)

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