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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(75)

「邪馬台国」論争は終わっている。(14)


 吉野ヶ里は強大な軍事的機能を持った環濠集落だが、そこから出土する遺物は、なぜか「吉野ヶ里は弥生期末で、(軍事的機能を)消滅した」ことを示している。これは吉野ヶ里を知る人にとって周知の事実だ。しかし、「では、なぜそうなったのか」。この問いに対しては、これまで誰一人答えることがなかった。これに対して、「当時の倭国にとって、呉はもっとも巨大な『仮想敵国』であった」という古田さんの洞察が見事な解答を導いてくれる。

 およそ延々と軍事的環濠を掘る、あるいは維持するという行為は、おびただしい労働力と歳月をともなう一大集団作業である。何等の「仮想敵国」なしに、このような行為をなすことは、およそ考えられない。

 その呉は、天紀4年(280、西晋の太康元年)の4月、滅亡した。「仮想敵国」が消滅したのである。さらに、その西晋が建輿4年(316)滅亡した。匈奴・鮮卑の南下によって洛陽・西安の両都は陥落し、南北朝時代が開始された。西晋朝の一派が、建康(南京)で東晋朝を開き、倭国は、その東晋の天子に「臣属」したのである。このことは、かつての1仮想敵国」の呉地が、今は「臣属」すべき天子の都の地となったことを意味するのだ。

 それだけではない。「316」の南北朝時代の開始以来、倭国の北方、朝鮮半島に、「実在の敵国」があらわれた。高句麗である。かつての楽浪・帯方の二郡は、大義名分上は、東晋に属しながら、間に海をへだてているため、実質上の支配力を失い、「軍事的空白地」を現出した。その「空白」を埋めるべく、北の高句麗は主として「北朝」を背景にもち、南の倭国は、ひたすら「南朝」を背景として、その「軍事的空白」を埋めるべく、撃突することとなった。これが四世紀から五世紀にかけての「高句麗と倭国の対立時代」だ。これ、高句麗好太王碑文に活写された世界と時代であった。

 一方では、かつての「仮想敵国」の呉地が今や「臣属」すべき天子の都の地となり、他方では、北に「実在の敵国」高句麗との撃突時代に入る。すでに、呉を最大の「仮想敵国」として構築された、吉野ヶ里が存続すべき意義はない。その余力もない。もし存続すれば、一には、大義名分上の「背叛心」の表現であり、一には、維持費等の経済的・労働力的消耗をまぬがれえぬ。それゆえ、吉野ヶ里は〝廃棄″された。その時期は「280~316」の間にあったのである。

 わたしはすでに「吉野ヶ里の仮想敵国」を論じたことがあった。南九州、薩摩や肥後の地を、それに擬したのであった。金属器の武器が朝鮮半島より北部九州にもたらされ、その「武力の優越」をもって、金属器の武器の乏しい南九州への侵入・征服が行われた。労働力獲得のための「生口」、また美女などを取得し、そのため、南九州側の「奪還」「反撃」を恐れて、この吉野ヶ里が構築された。そのように考えたのである。おそらく吉野ヶ里の当初の構築動機は、このようなところにあったであろう。「弥生前期、中期初の甕棺」の時代などが、これに当るであろう。

 これに対し、吉野ヶ里がもっとも活力に満ちた時代、それは「対、南九州」より「対、呉」へと主目的の移った時間帯ではあるまいか。

 以上のように「反呉倭王の仮想敵国」という新仮説の導入は、「吉野ヶ里の消滅」問題に対する明快な解説となったのであるけれど、ここから、二つの帰結、いわば、〝重大な波及効果″を生ずるのである。

 その一は、「倭国の首都圏」問題だ。いうまでもなく、吉野ヶ里は有明海の北端部に当っている。すなわち、この場合、有明海に侵入した敵の戦闘船団(南九州あるいは呉)はまっすぐ北上して、吉野ヶ里を突く。そのように想定されているのである。なぜか。

女王国地図
(『吉野ヶ里の秘密』より転載)

 それは当然、南九州を征圧した「倭国の首都圏」、そして「反呉倭王=親魏倭王の中心居城」が「吉野ヶ里の北方」にあり、とされているからに他ならぬであろう。

 さらに、わたしたちは知っている。吉野ヶ里の「軍事要塞」は、その東西の丘陵部に拡がっていることを。そして福岡県の小郡市にも、吉野ヶ里以上に長大な「楼観」(物見やぐら)の痕跡が見いだされているのである。

 このような、東西に展開された「マジノライン」の北方に存在する領域はどこか。いうまでもなく、「糸島・博多湾岸」を中心とする筑前領域だ。ここが「親魏倭王」たる卑弥呼の居した、倭国の中枢部、真の首都圏だったのである。

 わたしははじめて吉野ヶ里発掘の報に接し、くりかえし現地に足を運ぶとき、いつも内心に「一個の問い」を内蔵していた。それは次の一点だ。

 「吉野ヶ里は、その巨大な軍事施設を〝それ自身″のために作ったのか、それとも、〝他の中心点″のために作ったのか」と。今は、その解答が出た。東の小郡市に至る「マジノライン」の各拠点だけが偶然、〝自分自身″のために、自己の要塞を構築した。そのような想定は、しょせん空想的だ。やはり「反呉倭王」の中心拠点は、「三種の神器」セットを内蔵する五つの王墓(さらに最近発見された、韓国の良洞里の王墓をふくむ)の領域のための〝長大防御線″と考えざるをえないのである(時間の順に書くと、①吉武高木〔福岡市〕②三雲〔糸島郡〕③須玖岡本〔春日市〕④井原〔糸島郡〕⑤平原〔糸島郡〕。⑥良洞里は「小型彷製錬」をもつ「三種の神器」セットである点から見て、あるいは最末か。少なくとも、③以後であることは、疑いがない)。

 以上、近来最大の発掘経験であった、吉野ヶ里の経験、その示す客観的情報は、はからずも、本書(『「邪馬台国」はなかった』)の二十余年前の孤立の探究を〝裏書き″してくれることとなったのであった。

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