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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(74)

「邪馬台国」論争は終わっている。(13)


237年の東アジアの国際情勢

 237(景初2)年、卑弥呼(ヒミカ)は魏の明帝より「親魏倭王」の金印を授与されている。古田さんは「親魏倭王は反呉倭王である」と言う。

 当時、魏と呉は共に「天子」を称して対立していた。いわゆる「共に天をいただかざる」間がらだ。だから、その一方の魏から、右の称号をうることはすなわち、呉に対して「不倶戴天」の敵であることを宣言することを意味したのである。ということは、いつ何時、呉の武装船団が大挙して倭国に侵入するかもしれぬ、というその「可能性」に直面することとなったのだ。

 これは、決して杞憂ではなかった。なぜなら、第一に、・・・卑弥呼が魏に遣使した、その第一回(景初2年)は、「戦中遣使」であった。魏の明帝が遼東半島の公孫渊(こうそんえん)に対して渡海作戦を実行し、一大包囲網を完成して、その落城の刻々迫りつつあったとき、敢然として卑弥呼は対魏遣使に踏み切った。おそらく倭国内には、従来から公孫渊を通じて漢に通交していたため、「公孫渊派」とも呼ぶべき勢力も強かったであろう。けれど、東アジアの大勢を見て決然と「親魏政策」に踏み切ったのであった。その公孫渊が海を越えて呉と親交を結んでいたことはよく知られている。「親、公孫渊派」を切ることはすなわち、「親・呉派」を切ることだったのである。

 第二、魏もまた、倭国と結ぶことによって大きな軍事的利益をもっていた。というのは、楽浪・帯方郡は「韓」の独立と自立(魏から見れば「反乱」)に悩まされていたからである。ために、帯方郡の太守が戦死したことが、『三国志』の魏志韓伝に記されている。

東夷伝地図
(「東夷伝」地図。筑摩世界古典文学全集『三国志Ⅱ』より転載)

 そのような状勢に対し、魏は、その韓国の向うの倭国と結ぶことによって「韓の反乱」を鎮圧しうる、と考えたのではあるまいか。いわゆる「遠交近攻」の策である。

 事実、中国が軍事司令官(塞曹掾史)を倭国に派遣し、二十年間滞在せしめたことは、単に〝渺(びよう)″たる一狗奴国に対するがためだった、とは考えられない。それに対する卑弥呼の要請を奇貨として、一方は「対、韓国(独立運動)」、他方は「対、呉」の軍事的拠点として、倭国に「二十年間」も滞在した。これが中国側の国際的・軍事的視野だったのではあるまいか。

 第三、呉もまた、右のような魏の軍事的動向に無関心だったとは思われない。なぜなら呉はしばしば公孫渊と友好を結び、軍事的にこれを支援すべき一大軍事船団を遼東半島へ派遣していたこと、『三国志』の呉志に記載されているからである。先の、魏の公孫渊大包囲作戦は、この「公孫渊~呉」間の軍事的連係を断ち切るための一大作戦でもあったのだ。

237年頃の東アジア
(237年頃の東アジア。「東アジア歴史地図」というすごいサイトを見つけました。そのサイトからいただきました。)

 地図を開けば明白であるように、「遼東半島~呉(建康)」より、むしろ「九州~呉」間の方が〝近い″のだ。そしてこの区間は、すでに縄文早期末(6600年前)より、「石玦(玦状耳飾り)文明圏」として、濃密な交流を経験していたのであった。

 陳寿が倭人伝で、其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。と書いたとき、夏后少康の子の時代について語りながら、ついこの間まで、そこが「敵地、呉国の東に当っていた」ことをも、十分に示唆していたのではあるまいか。

 さて、「吉野ヶ里」問題に入ろう。

 吉野ヶ里遺跡の出土は、考古学界、古代史界に激震を与えた。とりわけ「邪馬台国=大和」論者にはショックだったはずだ。その仮説の考古学的論拠が次々と反故になってきても、「環濠集落は大和にしかないからな。」という事実にすがって、なお誤謬が明らかな自説を捨てようとしなかった。その最後の砦が、吉野ヶ里の出現によって、脆くも崩れてしまったのだ。しかし、にもかかわらず、このシリーズを書き始めたきっかけになった報道にあったように、なお頑迷に「邪馬台国=大和」説を捨てられない学者がたくさんいるのだからあきれる。

 それでは、吉野ヶ里遺跡の特徴を概観してみよう。(以下は『古代史の未来』による。)


 その領域の広さは他に類を見ない。。外濠が南北約1キロ、東西約400メートル、推定総延長は2.5キロ、外濠内面積は40ヘクタール、甲子園球場の約六倍の大きさである。(1989年段階)

吉野ヶ里俯瞰図
(クリックすると大きくなります。)


 「倭人伝」中、卑弥呼の居処についての記事に「宮室・楼観(ろうかん)・城柵(じようさく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持(じ)して守衛す。」とある。吉野ヶ里には「楼観(物見やぐら)」「城柵」「邸閣」(事用倉庫)」などに当たると思われる遺構がある。


 墳丘墓は盛り土と階段状の土型をもち、直径約40メートルである。倭人伝の卑弥呼の「冢(ちょう)」(径百余歩 30メートル前後)を想起させる。


 その墳丘墓の中の甕棺からは「有柄銅剣」や「ガラスの管玉」や「縮布類」が豊富に出土している。


 銅器の鋳型(前期)が出土している。福岡県でも最古クラスの銅器生産の遺址とも見られる(墳丘墓の反対側)。


 「埋列甕棺」。墳丘墓の「前」や「脇」に、一列もしくは二列に甕棺が“列をなして”並んでいる。社会の階層序列の表現であろう。それは「倭人伝」が伝える女王国の「女王―有力大人―一般大人―有力下戸―一般下戸―奴卑―生口」という階層社会と照合している。


 その後、当遺跡の東西線をなす「環濠集落」が次々と発見された。その中で、太宰府の南に当たる位置の「楼観」は、吉野ヶ里の場合以上の「高層建築物」と推定された。


 高床式建物の角柱。木柱も樹木そのものの形(円形)ではなく、“削られた”角柱の形跡が存在した。

 以上のような「全構造」は、その規模と質の両面において、従来の環濠集落に見出しえない壮観を示している。しかも、多くの点で「倭人伝」の記述するところと照応している。古田さんは吉野ヶ里遺跡を訪ねたときの感動を次のように綴っている。

 来た。見た。あった。 ― 広大な吉野ヶ里(よしのがり)丘陵がそこに広がっていた。

 延々(えんえん)と何キロもつづく外濠(そとぼり)。そそり立っていた、10メートルを越える物見やぐらの痕跡。そしてなによりも甕棺(みかかん)の大群。累々(るいるい)たる屍(しかばね)の海だ。それも激烈な戦闘の存在を証(あか)しする、12本の鏃(やじり)の突きささったままの遺体。見る人をふるえあがらせる首なし遺体の数々。それらが次々とわたしの眼前に立ち現われていた。

 これが弥生(やよい)だ。倭人伝(わじんでん)の世界だ。あの古代世界がそっくり、眼前にいま、立ち現われたのだ。これを「奇跡」と呼ばずして、何か。

 しかも、まだわたしの生きている時間帯に。そして幸いにもこうしてすぐ現場にかけつけることができた。歴史研究者にとって不可欠の健康をもっているときに、この「奇跡」に合うことができたのだ。そのことをわたしは歴史の神に深く感謝せねばならぬであろう。

 一日、歩き疲れたことも覚えず、丘から谷へとたどりつつ、わたしはそのような思いに満たされていたのである。

 では、壮大な吉野ヶ里が女王国の都だったのだろうか。答えはもちろん「否」。詳しくは次回で。

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