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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
505 吉本隆明の「ユートピア論」(4)
徒労感に耐えるという課題
2006年5月20日(土)


 「価値法則のない社会」は「賃労働のない社会」と言い換えてもいいだろう。もっと言えば「『人間疎外』を止揚した社会」。

 「第503回 5月18日」でコンミューン国家(あるいはリバータリアン社会主義)の要件を4項目あげたが「価値法則のない社会」では当然その一つ「公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。」は不要となる。コンミューン国家よりさらに理想的な社会像になる。その真の社会主義のモデルとして吉本さんがあげている要件を別の著書「超西欧的まで」(弓立社)から抜き出してみる。

社会主義のモデル
①賃労働が存在しないこと
②労働者・大衆・市民がじぶんたち相互の直接の合意で、直接に動員できないような軍隊や武装弾圧力をもたないこと
③国家は、存在しているかぎりは、労働者・大衆・市民にたいしていつも開かれていること。いいかえれば、いつでも無記名の直接の票決でリコールできる装置をもっていること
④私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、「社会的な共有」とすること

 ③で「国家は、存在しているかぎりは」と保留条件をつけているが、もちろん、いずれ「国家は死滅しなければならない」。それが最終的な理想だ。

 現実の国家はこの理想の社会像からはますます遠ざかっている。まさに『無力感、徒労感、孤立感』が高じるばかりだ。しかし、理想なくしては現実を変えることができないのも真だ。このことをめぐっての吉本さんの論述を抜き出してみよう。少し長くなります。


 現在、資本主義も社会主義も区別なしに進んでいって、集中された富が再び大衆に還元される方法が、いずれにせよ両社会体制が共通にとろうとしている方法だとすれば、いまの世界の体制をおおすじに肯定しながら部分的に異議申し立てをしたり修正を加えていく以外にないというかんがえもあるでしょう。

 また、理想の原型を描くのはムダだから、どちらの体制もとっていく共通の考え方へむかって少しでもよくこしらえることのできるイメージをつくるのが具体的かつ現実的であって、それ以外に無力感を克服することはできないという考え方もあるとおもいます。

 現在のこういった状況のつかまえ方は、大ぎっぱであれば誰も似たりよったりです。ただ、それに対して理想のイメージの原型をどのように構築するか、あるいは理想のイメージの原型に近づかせるために部分的に補修していくことのほうが重大なのか、という岐路に立つとき、はじめてぼくは、現在の思想の状況的なきつさを体験する気がするんです。自分はどのようにそれを耐えるのか、あるいはどこまで耐えてイメージを明瞭にしなければならないのか、ということがいちばん切実な課題になっているんですね。

 (理想の未来国家は)近代民族国家のいくつかの柱を全部否定的にチェックする装置をかんがえた国家だとおもいます。
 こうしたコミューン型のイメージは、現在まで、社会主義国家でも資本主義国家でも実現されていません。これらの国家はむしろ現在、近代民族国家のイメージ内で軍備拡張や権力集中に精をだしている現状です。理想国家としてのコミューン型国家のイメージは、実現されるべきイメージとして固執する価値はあるとおもっています。

 ただ、これに固執することは、現在も個人が単独に頭の中で描きうるだけの現状ですね。どこかの国が、そのコミューン型国家にむかうというキザシはいまのところありません。どこをみても軍隊を増やそうという国ばかりだし、あちこちで小さな戦争をやっているし、人間を国家が管理するところまできていて、やりきれない気持ちはつのるばかりです。でもぼく自身は、描くに値するイメージだとおもっています。観念の中で描こうが、孤立しようが描くに値するイメージです。

 さらにまたぼくは、もっとちがう国家のイメージをつくらなければならないのではないかとおもいます。それは現在の資本主義国にも社会主義国にも追従するものではなく、なおかつ古典近代期にマルクスがかんがえたものともちがって、現在の産業構造の共同体のイメージをふまえられたうえでかんがえられてしかるべきであるとおもいます。それにはまず、各人が知識としてそのイメージをつくりあげる意思が必要でしょう。なぜかというと、マルクスがかんがえたコミューン型の国家は理想だとはおもいますが、あまりに世界の趨勢とかけ離れすぎており、コミューン型国家は、もともと不可能だったのではないかという疑問すら生ずる現状だからです。
 ですから、コミューン型国家は固執するに値するけれども、まったくのユートピアかもしれない。もっとちがう国家のイメージを生みだす必要があるというモチーフは相当重要なことだとかんがえています。

 コミューン型国家の柱のひとつである、軍隊および警察のような抑圧機関はやめるべきであるというイメージは固執するに値するとおもいます。それはたんに守るということだけでなく、要求するに値するものだとおもいます。社会主義国にむかっても資本主義国にむかっても軍隊と抑圧機関の撤廃は要求しなければならない課題だとおもいます。そして、こうした要求をつきつけていく場合、一個の知識人であれ大衆であれ、やはり世界に対して孤立していくことは避け難い運命のようにおもわれます。それと同時に、ある意味ではまったく現実離れしているということになるかもしれないことが前提としてなければならない。したがって、知識が立たされる岐路にいつでも立たされることになるけれども、理想のイメージを退かずに指し示し、そう発言できる権利を保有しておくことが本来的な知識の課題であるともいえるでしょう。



 知識人とは何か。不可避の知的課題を担ってしまった者を知識人という。たしか吉本さんの定義はこのようだった。不可避でもなんでもないことで知識を売り物にして得意になっているエセ知識人がごまんといる。こういう手合いを知的スノッブという。
 私(たち)は知識人からさまざまな知見や示唆や人生の糧を受け取り、それなりに知識人に対して敬意を持っている。が、だれが不可避の課題を闘っている知識人でだれが知的スノッブにすぎないのか、見誤らないようにしたい。


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