2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(73)

「邪馬台国」論争は終わっている。(12)


 今回から古田さんの「吉野ヶ里」についての論究をまとめます。主な教科書は『「邪馬台国」はなかった』の「あとがき・二十余年の応答」、『吉野ヶ里の秘密』です。

 吉野ヶ里そのものの論究に入る前に、そのための予備知識として取り上げておきたいことが二点ある。一つは「倭人伝」の史料批判であり、二つ目は邪馬壱国時代の東アジアの国際情勢である。

「倭人伝」の史料批判

 『三国志』の著者・陳寿の記述に対する同時代人の信頼はたいへん厚かった。陳寿の後ろ楯になっていた張華は『次は晋書をまかせたい』と言っていたという。また当時、魏書を執筆していた著名な文人・夏候湛は、陳寿の魏書を見て自分の書を破棄し、書くのをやめてしまったというエピソードも伝えられている。

 では、同じ『三国志』中の「東夷伝」やその中の「倭人伝」は信頼に値しないのか。一般に、「倭人伝」には誤りがある、というのが共通の認識のようだ。もちろん、部分的には陳寿自身の誤解による誤りがあるかもしれない。あるいは写本を繰り返している間の誤字脱字もあるかも知れない。しかしその類の誤りは全体の整合性の中で訂正可能であろう。

 中には次のようなことを言う人もいる。

「実際に倭に渡航した人物の勘違い・誤った理解があるでしょう。通訳を介しても意思の疎通が完全でなかったことは想像にかたくありません。これは仕方のないことでしょう。最初に倭人伝をまとめた人物が、倭へ渡航した人物に直接話を聞いたとは到底思えません。提出された断片的な報告書か何かを参考にしながら書いたのではないでしょうか。ここでも誤りが混入されたことでしょうし、これはもう、どうしようもありません。」

 もしこのような根源的な誤りであれば、「倭人伝」は史料としての価値はないということになる。「倭人伝」を使っての全ての議論は無意味となろう。しかし、「倭人伝」にこのような根源的な誤りを想定するのはおおいなる誤解である。そのような根源的な誤りのないことは、なによりも古田さんの解読が指し示している。今まで見てきたように、古田さんの解読は考古学的遺跡・遺物とピッタリと整合している。もちろん古田さんの解読にも部分的には誤りがあるかも知れない。しかし私は、古田さんの解読には根源的な誤りはなく、従って「倭人伝」にも根源的な誤りはないと考えざるを得ない。古田さんは、「倭人伝」は邪馬壱国へ派遣された使者による天子への報告書を元に書かれたはずだから、そこには虚偽はないと、ひたすら陳寿を信じ切って研究を続けた。

 また、特に「倭人伝」の里程記事には根源的な誤りがあり得ないことを示す史料批判がある。木佐敬久氏がおおよそ次のような理路でそのことを論証している。

 「倭人伝」に次のような記事がある。
 狗奴(こぬ)国との戦闘を収めるため、女王卑弥呼は帯方郡の太守・王頎(おうき)に援助を要請した。その要請に応じて、帯方郡の塞曹掾史(軍司令官)張政が派遣された。247(正始8)年のことである。

 倭人伝の未尾に、彼の帰国の記事がある。
 卑弥呼の死後、そのあとを壹与が継いだ。壹与は帰国する張政に中国への使者を付けて見送った。倭国の使者は中国の都・洛陽に至って貢ぎ物を献上した。
 この記事で倭人伝は終っている。張政の帰国年時は書かれていない。

 しかし、張政の到来と帰国の間には、女王卑弥呼の死やそれにつづく倭国内の混乱のあったことが書かれてあり、そのあと、年若い女王、壹与が倭国の王として即位したことが書かれている。この壹与の即位では、張政が“後立て”となっていたようだ。従って張政の倭国滞在期間が、かなり「長期間」にわたっていたことは疑いがない。

 晋書倭国伝によると、張政の見送りをかねて渡った倭国の使者が落陽に着いたのは、魏朝をうけついだ次の西晋朝の最初、泰始(265~74)の初めだったとある。その上、西晋朝の記録官の記載によると、266(泰始2)年だったことが判明している。

 以上により、張政の倭国滞在期間は、247(正始8)年から266(泰始2)年までの20年間であったことが分かる。

(私はこの「張政の倭国滞在期間20年」説には後日疑問を提出している。『「倭人伝」中の倭語の読み方(94)』を参照してください。)

 以上のことを指摘して、木佐氏は次のように論を進めている。

 倭人伝の最初に書かれている行路記事は、張政の軍事的報告書を背景にもち、中国側の軍事用の目的にかなうものとして、書かれているものと見なければならなぬ。

 従ってそこに方角上の誤謬(たとえば、南と東のとりちがえ)や里程上の巨大な誤謬(たとえば、五・六倍の誇大値)があった、というような、従来多く行われてきた考え方は、ありえないと思う。

 また何より、帯方郡から女王の都までの「總日程」が書かれていなければならぬ。なぜなら、それなしには、中国側は、食糧の補給や軍事上の兵力増強などしようとしても、一切目算が立たないからである。

 この木佐氏の論になにか不都合があるだろうか。その論理に一点の瑕疵もないと、私は思う。また、張政の天子への報告は里程記事だけではあるまい。当然、20年にもわたって実際に見聞した邪馬壱国の政治・社会状況や風俗についての報告も含まれていただろう。

 倭へやって来た魏の使節は張政一行だけではない。また魏の使節が実際に倭国へ来たのは一回や二回ではない。「倭人伝」は言う。「(伊都国は)郡使の往来、常に駐(とど)まる所。」と。彼らの本国への報告書は物見遊山の記録ではない。その実務にもとづいて書かれたものだ。

 張政をはじめ何人もの吏官による諸報告書をもとに「倭人伝」は書かれた。とすれば、
「実際に倭に渡航した人物の勘違い・誤った理解があるでしょう。通訳を介しても意思の疎通が完全でなかったことは想像にかたくありません。・・・最初に倭人伝をまとめた人物が、倭へ渡航した人物に直接話を聞いたとは到底思えません。提出された断片的な報告書か何かを参考にしながら書いたのではないでしょうか。」
というような憶測、これまでの「常識」は全く無用である。

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