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《「真説・古代史」拾遺編》(72)

「邪馬台国」論争は終わっている。(11)



卑弥呼(ヒミカ)の比定


 「邪馬台国=大和」説が全く成り立たないという一点だけからでも、従来の神功皇后説・倭姫命説・倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説などは問題とならない。どだい九州王朝を抹殺した上に成り立っているヤマト王権の史書『日本書紀』の中では、ヒミカの影さえ見いだすことができないのは当然なことだ。「倭の五王」をヤマトの大王に比定する愚と同じである。

 ヤマト王権が抹殺したはずの九州王朝の痕跡が万葉集や古今集や謡曲、あるいは様々な金石文などに残っていることを私(たち)は知っている。では、中国の文献に鮮明な姿を現わしている「倭国の女・王ヒミカ」の姿がどこかに残っていないだろうか。古田さんは『筑後国風土記』の次の一節に注目する。

昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝と為りて祭る。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と曰ふ。
(岩波古典文学大系『風土記』509ぺージ)

 上の赤字部分は「岩波」では「時に、筑紫君・肥君等占(うら)へて、筑紫君等が祖(おや)甕依(みかより)姫を祝(はふり)と為して祭らしめき。」となっている。これだと話全体がとても不可解なものとなってしまう。実はこの部分に原文「改定」が行われている。従来の学者たちはどうしてこうもあちこちでいとも簡単に原文改定をやってのけるのだろうか。その「改定」を元に戻して、古田さんが読み下し直したのが赤字部分である。(この場合の「改定」も不当であることを古田さんは詳しく論証しているが、それは略す。)

 さて、上の説話の内容は次のようである。

〈その一〉
 昔、此の堺(基山を指す)の上に“荒ぶる神”がいた。往来の人々に多くの死者が出た。そこで「人の命尽くしの神」と言った。
〈その二〉
 その時、筑紫君・肥君等が占いをした。(その結果)現在(筑後国風土記の成立時点)の筑紫君等の祖先に当る甕依姫が(招かれて)登場し、彼女が「祝」(司祭者)となって祭った。
〈その三〉
 その結果、路行く人が「神害」をこうむることがなくなった。そこで「筑紫の神」というのである。

 要するに、過去の一時点における“現実の巫女”たる甕依姫の活躍譚である。

 次いで古田さんは、この説話の内容を次のように分析している。

 まず、「甕依姫」ついて注目すべき点がある。

第一
 「よりひめ」は、「憑(よ)り代(しろ)」をもって神に仕える、権威ある巫女”を意味する称号である。「天之狭手依比売(あめのさでよりひめ 「狭手」は、漁具の一種のようである)」、「玉依毘売(たまよりひめ)」(ともに『古事記』神代巻)などと同じである。「甕依姫」の場合、「甕(みか)」が固有名詞(人名)部分、「依姫」は称号と考えられる。「ヒミカ」と固有名詞(人名)部分が一致している。

第二
 甕依姫が「甕」を“憑り代”としていた巫女であった、とすれば、いわゆる「甕棺」の盛行した、弥生時代の筑紫の巫女であったもの、と考えられる(考古学上では「カメカン」と言いならわされてきたけれども、“死者の死後を祈り、祀る”という、神聖な意義からすれば、「ミカカン」と呼ぶ方が正当であるものと思われる)。この点から、甕依姫はヒミカと同時代の人であった可能性が高い。

第三
 両者とも、呪術をもって神に仕える、すぐれた能力をもつ巫女であった。この点も共通している。

第四
 甕依姫は「筑紫君の祖」である、と記せられている。したがって彼女自身も「筑紫君」として、筑紫における中心権力者であった可能性が高い。この点も、「倭国の女王」として、中心権力者であったヒミカとの重要な共通点である。

 次に説話が伝える事件の経緯についてまとめると次のようである。

第五
 「麁猛神」が「半死半生」事件をおこした、というのは、要するに“この神を祭る氏族による、大規模な反乱”をさすものであろう。この大反乱に対し、筑紫君・肥君等は、これに対する術(すべ)を失った(「等」といっているから、他に豊君や日向君なども、含まれよう)。要するに、九州の北・中部を中心とする、大争乱だったのである。

 これは「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」という「倭人伝」の一節に符合する。ヒミカの登場以前に一大争乱があり、従来の権力者間で解決不可能の事態となったことが記せられている。

第六
 そこで筑紫君等は、占いによって甕依姫をえらび出し、彼女にその解決をまかせた。彼女は「祝(はふり)」(司祭者)となって、「麁猛神」を祭り、この大争乱を鎮めることに成功した(おそらく、軍事・政治・宗教にわたる各面での施策の成功をふくむものであろう)。

 これは「倭人伝」の「乃ち共に一女子を立てて王となす。」と呼応する。ヒミカは、人々から「共立」された、という。その「人々」とは、倭人伝の用語では「大人」であろう。この点、“筑紫君・肥君等の占いによって登場させられた”という甕依姫のケースと一致している。

第七
 そして注目すべきものは、次の点である。この大成功によって、以後、甕依姫の子孫が筑紫君となり、現在(六~七世紀後述)に至っているのである。いいかえれば、この画期をなす事件以前の、旧筑紫君と、この事件より後の、甕依姫を祖とする新筑紫君と、権力中心者の家の交替が生じた。このように語られている。

 これは「倭人伝」の「更に男王を立てしも、国中服せず。更ゝ(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」と呼応する。ヒミカの「宗女」(一族の娘)である壱与が、「倭国の女王」となったことがのべられている。すなわち、卑弥呼は一代で終らず、その「血縁の娘」が後継者となった、と言っている。つまり、最初に、「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七・八十年。」とあった、その旧「倭国の王権」が断絶し、新「倭国の女王の王統」に交替した、という王家の交替が記録されている。

 以上のように、「甕依姫」説話と「倭人伝」が伝える倭国が7つもの点で一致している。こういう場合も偶然と言うだろうか。ここまで一致すれば、甕依姫をヒミカに比定できる可能性はきわめて高いと言えよう。

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