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《「真説・古代史」拾遺編》(68)

「邪馬台国」論争は終わっている。(7)


 『「邪馬台国」はなかった』では、「三国志」全体のルールに従って「倭人伝」を読むという方法に徹することだけによって、「邪馬壱国の在処は博多湾周辺地域」という結論を得た。そこでは考古学的な資料はいっさい用いていない。その後、古田さんは考古学的資料に取り組んで、「邪馬壱国の中心地はどこか」という問題に迫っている。その結果が「倭人伝」の読解から得た結果と一致すれば、古田説が真実であることがいっそう明らかとなる。

 それでは、弥生時代のものとされる遺跡から出土した遺物の出土状況を見てみよう。(以下の資料はは『日本古代新史』による)なお、各資料の数値は、その後の発掘調査などの進展により、現在明らかになっている数値とは多少の違いがあるかも知れない。しかし、その基本的な傾向には変わりはない。

鉄器出土全分布図

鉄器分布図


 福岡県が106で圧倒的に多い。兵庫42、大阪27、奈良はゼロ。

大型鉄器出土分布図

大型鉄器分布図

 これも福岡県が圧倒的で、近畿はほとんどない。

ガラス勾玉出土分布図

ガラス勾玉分布図

 弥生時代のガラスの勾玉は近畿にもあるが、やはり九州糸島・博多湾岸が圧倒的に多い。とくにガラスの勾玉の鋳型は、糸島・博多湾岸に集中している。

九州における銅矛と銅戈の出土分布図

銅矛分布図

 銅矛・銅戈ともに福岡県が圧倒的に多い。対馬が福岡県と連動していることに注意したい。対馬と壱岐を、古田さんは「倭国の定点」と呼んでいる。なお、この頃の近畿は銅鐸圏であった。

北九州における銅器鋳型の出土分布図

銅器鋳型分布図

 銅矛と銅戈の鋳型も糸島・博多湾岸が中心だ。

 以上だけでも、弥生時代の政治・文化の中心は九州北部であることが、誰の目にも明らかではないか。この事実に目をつむって、相変わらず「邪馬台国=近畿」説に固執する学者たちの頭脳と神経は一体どうなっているのだろうか。古田さんの造語を借りると、まさにテンノロジーという虚偽意識に呪縛されている哀れな人たちと言うほかない。

 ところで「倭人伝」によると、魏の明帝は詔書とともにたくさんの宝物を卑弥呼(ひみか)に下賜している。とくに「鏡百枚」や種々の絹(錦)が目立つ。では次に漢式鏡と絹の出土状況を見てみよう。

漢式鏡の出土分布図

漢式鏡分布図

 福岡県が149、佐賀県が11と、他を圧倒している。近畿はきわめて少ない。大阪、京都はゼロ。

九州北部の絹の出土分布図

絹分布図
(布目順郎氏作成)

 倭国産の絹もやはり博多湾岸とその周辺に出土している。特に注目すべきは、中国産の絹は春日市の須久(すく)岡本遺跡だけに出土している。他は全て倭国産の絹である。

 以上から、邪馬壱国の中心地は福岡県春日市周辺ということが明らかである。

 なお、奈良では弥生時代の絹の出土例はない。しかし、古墳時代の遺跡・黒塚から絹が出土している。もちろん倭国産の絹である。これについて、古田さんは次のように述べている。(講演録「卑弥呼と黒塚」より)

 非常に興味深い。被葬者の木棺自身も桑の木で出来ている。これはおもしろい。黒塚に葬られた人は蚕、絹の製法を始めて大和にもたらしたことを誇りに一生を終えた人ではないか。

 桑の木というのはあまり木棺を作るのに適した木だとは思えない。それをわざわさ葬られた人の気まぐれで桑の木にしたとは考えられない。やはり桑の木に葬ることが、葬られた人にとっては本望であろう。多少木棺の部材としては具合が悪いでしょうが、それを越えて値打ちがある。だから桑の木の木棺にした。こう考えて間違いない。事実倭国の絹が出てきた。

 倭国の絹が出てきたということは中国ではない。中国から絹が来たのなら、中国の絹が全部ではなくとも一部でも出なければおかしい。中国の絹は全くゼロ。全くなかった。倭国の絹ばかりである。そういうことは彼がもたらしたのは中国からでなくて、博多湾岸からである。そういうことは誰も言わないでしょうが論理的にはそうなる。

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 コメント
この記事へのコメント
卑弥呼が弥生人ならそうですね!
古墳時代人なら違う答えがでてきます!
2015/03/20(金) 07:31 | URL | #-[ 編集]
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