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《「真説・古代史」拾遺編》(67)

「邪馬台国」論争は終わっている。(6)


 「1里=約75メートル」という魏・晋時代の物差しを使って「倭人伝」の記述に忠実に従えば、邪馬壱国の位置を決定できる。邪馬壱国はどこか?

 「不弥国は邪馬壱国の玄関である」、わたしはそういう命題(それが真理とされたテ ーマ)に達していた。「部分」をなす「区間距離」が、「不弥国」で終っている以上、これは当然の帰結だった。

 その不弥国は、伊都国から東へ百里。7.5キロだ。基準をなす伊都国は、旧怡土村。今の前原町か糸島神社あたりとすれば、不弥国は、今宿か姪の浜あたり、ということになろう。博多湾岸への、西からの入口である。そこが玄関となれば邪馬壱国は当然、博多湾岸一帯となろう。

邪馬壱国

 旧来の論者が「奴(な)国」に当ててきた地帯だ。しかし、真の「奴(ぬ)国」は伊都国の東南、百里。つまり糸島郡の平野部(旧、糸島水道以南)。わたしはそう考えた。第三の大国である。

 次の問題は、では邪馬壱国の範囲はどこまでで、その中心はどこか?

 この問題は『「邪馬台国」はなかった』(古田さんは「第一書」と呼んでいる。)ではまだ未解決だった。その後の探求により、古田さんは次のような結論に達した。

 邪馬壱国(旧「邪馬台国」)の〝比定地″は、けっしていろいろは存在しない。博多湾岸、その中心は博多駅から太宰府に至るゴールデン・ベルト、それ以外に見出すことができぬ。わたしは堅く、そのように思っているのである。

 次は範囲。これは、倭人伝からはわからない。これが原則だ。魏の使者にとって、女王国の都に到達したこと、それで十分だった。それ以上に、その国の東西南北の範囲を確認して報告する、そこまではいたっていなかった。三国志に次ぐ、晋書 ― それも陳寿に委ねられるはずだったようであるが ― でも、できていれば別だったかもしれないけれど、それは成立しえぬまま陳寿は死んだ(今ある『晋書』は、ずっと後の唐代 - 7世紀-の成立)。

 したがって、第一書のさいはそれにはふれえなかった。しかし、今は一歩前進できた。筑後川流域もまた、邪馬壱国の範囲内と考える。そこにある有名な「山門」、それは文字通り「山の門」である。肥後(熊本県)にも「山門」があったという(和名抄)。さらに博多湾岸西北の入口、あの姪の浜の近くにも「山門」(下山門)がある。これらの「山門」群は、この地名群の内側に「山」と呼ばれる領域があったことの反映だ、わたしにはそのように思われる。

 一方、「邪馬壱国」とは、「邪馬(山)プラス壱」という字面。「壱」(壹)は、〝二心なく忠節″という意味で、壱与が中国(西晋の天子)に対して〝名乗った″国名と考えられる。「壱与」は、その「国名」の「壱」(「倭〈ゐ〉」に代って)を姓とし、中国風の一字名称「与」を名としたもの、そのように考える。

 狗邪韓国といえば、韓地における狗邪の地。不耐濊(ふたいわい)王といえば、濊国の中の不耐の地の王。同じく「邪馬壱国」は、「壱」(倭国を指す)国における、「邪馬」(=山)の地、それを指す言葉である。わたしはそのように考えた。したがって、右の「山門」群の囲続は偶然とは思われなかった。そこで、筑後川流域も邪馬壱国の範囲内、そう判断したのである(ただし可能性)。

 もちろん、これは先の「里程分析」のような確実度にもとづくものではない。たとえば「山門」という地名が、3世紀にまでさかのぼれるかどうか、厳密には不明だからである。倭人伝からいえることは、「戸数七万」の大国は一博多湾岸だけでは狭すぎる。少なくとも、筑後川流域もふくむ、そう考える方が妥当、そのように判断されるのである(壱岐一郎さんは、佐賀県までふくんだ大領域を考えておられるようであるが、もちろんその可能性もあろう)。

 何でも、倭人伝からわかる。そんなものではない。わかるものをわかるとし、わからないものをわからないとする、これこそ真実探究者にとって基本のマナーではないだろうか。

 次の問題は、では邪馬壱国の中心はどこか?

 例の方法、〝三国志全体の用例から倭人伝を見る″。この方法から見ると、中国の場合、「~洛陽に至る」という文形の場合、洛陽城の一角、その都門に到着したことをしめす。そこから先、城内に入ってからの中心地、それはまた別の話なのである。中国の「都」や「町々」に当る各地の大・小の中心地は、原則として〝城壁″に囲まれている。そういう習慣に立った書き方だったのである。

 今は邪馬壱国の玄関、不弥国に立った。博多湾岸の西北の入口だ。そこから先に女王国はひろがっている。その中で中心地はどこか。それはそこまで着けば一目瞭然。たとえば、洛陽城の一つの都門に入って、そこから先の市街案内、そこまで書いてはいない。それが三国志の書き方なのである(また多くの他の史書もそうだ)。

 こう考えてみると、真の中心地、・・・それは、志賀島から朝倉まで、その線上の中心域である。弥生のゴールデン・ベルトなのだ。こここそ、弥生の第一の大国、邪馬壱国にふさわしい。

福岡県遺跡群
(『古代史の未来』より)

 ここを、弥生の「第三の大国」である「奴(ぬ)国」に当てたら、それに対する「第一」「第二」の大国は、日本列島中、いったいどこにある。弥生の出土分布図を見渡しても、どこにもないではないか。

 この地帯から豪華な弥生の出土物が出土するたびに、「奴(な)国から、また出土」と書きつづけてきた新聞記事、そこに古代史界における「現代の迷妄」が象徴的に表現されている。そういったら、果して過言だろうか。

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