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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
503 吉本隆明の「ユートピア論」(2)
「プロレタリア独裁」の意味
2006年5月18日(木)


 レーニンのマルクスからの逸脱を、吉本さんはもう一つあげている。「プロレタリア独裁」である。
 『理想の未来国家としてイメージを提出されている唯一のもの』として、吉本さんはコンミューン国家を取り上げている。シリーズ「ロシア革命の真相」(第485回~第498回)でその実践例を見てきたが、その国家の基本的な骨格を箇条書きにすると次のようだろうか。

☆軍隊とか警察のような武力・暴力・抑圧機関を撤廃する。
☆管理システム(政府)の構成員(公務員)はいつでも大衆によってリコールすることができる。
☆公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。
☆生産手段・生産物は労働者・農民の自主管理にゆだねられる。

 これはいわゆる「国家」(近代民族国家)とは全く違うものであり、コミューン国家という呼び方は矛盾した呼び方になるが、いまはそれは置くことにする。

 さて、マルクスは資本主義から共産主義に行く過程にプロレタリア独裁というのは必須だと言っているが、これを吉本さんは『そのプロレタリア独裁ということと、コミューン型国家への国家の移行ということとはイコールだ』という理解の仕方をしている。それに対してレーニンは「コミューン型国家への国家の移行」をしようとはしないで、「プロレタリア独裁」の不可避性だけを肥大化してしまった。コミューン国家を試みたマフノ運動をレーニンが圧殺してしまったことも私(たち)は「ロシア革命の真相」でみてきた。


 そういうコミューン型国家へ近代国家というものを転換させるには、プロ独裁というのが必要なんだと(マルクスは)いっているので、だからコミューン型国家の形成ということとプロ独裁ということとはイコールだとぼくは理解しているわけです。

 ところがレーニンは、そういう志向性はあったんでしょうが、ちっともコミューン型国家に転換させないで、それでプロ独裁ということを文字通りにこれは不可避なんだというふうにうけとっているから、もうプロレタリアの前衛集団による大圧制ということになっちゃったんで、プロ独裁ということを、片一方だけで、つまり強圧・強制力という意味あいだけで理解しているというのはまったくナンセンスだとおもう。だけどレーニンはそうしちゃったんだから、そこで問題がこじれてしまっているわけですね。



 ロシア・マルクス主義が犯したマルクス曲解のせいで「プロレタリア独裁」と言う概念も、一般に流布されている通俗的な意味では、極悪非道は専制君主の独裁のようなものと、ひどく誤解されたものになってしまっている。そうではなくて、「プロレタリア独裁=コンミューン型国家の形成」と理解すべきだと、吉本さんが強調している。
 <アジア的>という問題も、『(<アジア的>な)感性とか意識構造とか、 …そういうものがのこっている国家ではコミューン型国家への転換が、しやすいのであるか、しにくいのであるか。しやすいとすればどこであって、しにくいとすればどこなのか、それはヨーロッパ国家とどう要素が遠うかということをはっきりさせるべき』問題として「コンミューン型国家」と関連させせて考えられている。

 ところで、この「コンミューン型国家の形成=プロレタリア独裁」ということを、マルクスの時代とは全く異なる現在の経済的・社会的状況下で考える場合、どういう問題点があるだろうか。

 まず、「プロレタリア」と言う概念。マルクスは資本主義社会の隆盛期の真っ只中で、生産手段を持たずに賃労働をしている労働者、疎外され搾取されている人間を「プロレタリア」と呼んだ。このときマルクスはこの言葉を「もっとも発達した資本主義」を典型として使っていたのか、あるいはもっと一般的に無条件の概念として使っていたのか、と言う疑問点を挙げて、吉本さんは次のように述べている。


 いまだったら、飢えて生活の再生産すら不可能であるような貧困から、先進資本主義国の労働者みたいに、たとえば日本のばあいに、平均の貯蓄額が400万円ぐらいあって、90%が中産階級意識をもっている、そういうプロレタリアートもいる。この格差というのは、これからもっと資本主義が発達していけば広がりますよね。そういったことを全部ひっくるめた上で、普遍概念としてプロレタリアートということばが使われたのか、それとも、もっとも先進的な資本主義国だけを扱うというふうにかんがえられていたのか。そのへんどうなっていたのかなという問題が、ぼくのなかにありましてね。

 プロレタリアートという概念は、これはもはや使っても使わなくてもいいんじゃないか。これからますますそうなっていくんじゃないかとおもうわけです。だからプロレタリアートということばのなかで、確かに貧困で明日も飢えるかもしれない人間というのが第三世界とかアジアにはいるわけですが、それとは別に、もっと豊かなイメージで描かなければならないプロレタリアートというのがいて、その広がりをどうとらえるかが問題になってくる。プロレタリア独裁というのが問題になるとすれば、そこだとぼくはかんがえているんです。



 つまり。現在の経済や産業や社会の構造は、「プロレタリア」という単一の概念ではとらきれなくなっていると言っていると思う。資本主義は、マルクスの時代には予想もできなかった段階に入っているという認識が吉本さんにはある。吉本さんはそれを「超資本主義」と呼んでいる。またそれは、管理システムとして、現存する資本主義国家と社会主義国家の違いがなくなってきているという点にも現れているという。
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