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《「真説・古代史」拾遺編》(65)

「邪馬台国」論争は終わっている。(4)


 榎氏が唐代の『六典』を根拠に里程を計算していたのに対して、古田さんはあくまでも『三国志』の記述のルールに従う方針を貫く。つまり古田さんは『三国志』中の里数値を全て書き出して調べている。古田さんの解読の厳格さを示す好例なので、その部分の叙述をそのまま引用しよう。

 三国志全体の中には、159個の「里」があった。その中には、固有名詞中のものや、距離でなく、別の意味(たとえば〝むらざと″など)に用いられた「里」、またいずれとも判断できるような「里」もあって、数え方によって若干の誤差はあるけれど、大約に変わりはない。ことに「里」の長さ、つまり「里単位」を測定する直接の手がかりにできる例は、ここにふくまれている。

 〝そんなにあれば、一里がどのくらいの長さで使われているかすぐわかるだろう″。そう思われる方もあろう。だが、そうはいかない。測定技術上の難点があるのだ。

 かりに〝A地(地名)からB地(地名)まで何里″とあったとしよう。第一に問題は、そこに書かれているA地やB地とは三世紀の地名だ。それが現代の中国地図のどこに当るか。それが問題である。一般にはなかなか確定しにくい。

 第二の問題は、もし確定できたとしても、三世紀のA地と二十世紀のA地とでは、ピタリ、一致するはずはない。多かれ少なかれ、ずれている。それが当り前だ。だから、「何里」とか、「何十里」とか、そんな短い距離ではあぶない。「何百里」でも、必ずしも安心できない。倭人伝では、末盧国から伊都国まで「五百里」、狭い距離である。

 第三の問題として、A地とB地の中のそれぞれどのあたりを測定の基点にするか、それによってえらく〝狂ってくる″のである。

 このような困難点を回避するため、わたしは次のような基準を立てた。

(1)
 A地からB地まで、という二点間の距離の形をとっていること。
(2)
 A地・B地とも、三世紀のその地点が現在も確認できること。
(3)
 その距離が「千里」台であること。

 このようなケースなら、たとえ先にのべたような測定上の〝ズレ″の問題があったとしても、〝影響をうけない″ - そう考えたのである。

 この厳格な基準にパスした例、それが二つあった。

(A)
 (韓地)方四千里なる可し。(魏志、韓伝)
(B)
 (武陵郡治〈常徳〉から五渓まで)山険に縁(よ)りて行き、二千里に垂(なんな)んとす。(呉志、鐘離牧伝)


 これはすばらしいことだった。わたしの方が、いわば〝勝手〝に立てた基準だ。そんなもの、なし。こうなっていても、文句をいえた義理ではない。

 二例では少ない。そういう人もあろう。しかし、「里単位」というものの性格からいえば、これで十分ともいえよう。一つの本の中の各ぺージにあらわれてくる「里」の基本の長さが、無原則に各ページまちまち、そんなことはありえないからである。ところが、右の二例とも、じつは倭人伝と同一の「里単位」に立っている。それが判明したのだ。(A)は明快な例だった。韓地は、東と西が海。「方四千里」というのは、一辺が四千里の正方形、という意味だ。だから東西四千里の実際の長さが明快なのである。

朝鮮半島

測ってみると、約300~360キロメートル。したがって1里は約75~90メートルということとなろう(海岸線の海浸などを考慮して誤差を見こんで測定した)。

わたしはこの例を見て思った。〝倭人伝の里程誇張説は無理みたいだな〟と。なぜなら、韓地は倭国などと異なり、漢代にすでに、「漢の四郡」がおかれていた朝鮮半島だから、その東西幅の実際の長さを中国の朝廷の側(漢-魏-晋)が知らなかったはずはない。それを「四千里」といっているのだから、この「一里」は漢の長里(一里=約435メートル)などであるはずはないのである。

 してみると、中国(魏朝)は、一里を約七75~90メートルと考えている、そう見なすほかはないのだ。そしてこの韓地面積の「里単位」と倭人伝内の「里単位」が同一だとしたら、あの「倭人伝内、里程誇張説」など、吹っ飛んでしまうではないか。

 この点、(B)の場合も同じだ。常徳というのは、洞庭湖西南岸の都邑として著名である上、到着地の五渓は、現在も著名な名勝地である。ちょうど、ナイヤガラの瀑布や琵琶湖のように、昔も今も、その存在自体は疑いようがない。

 その常徳から五渓の入口まで、川ぞいに測ると、入口の沅(げん)陵までほぼ150キロ前後、これが〝二千里弱″というのだから、やはり「一里」は約75~90メートルでピタリ。漢の長里の方では、たとえ「五渓の奥」までとしても、まったく足りない。そこで〝五渓の中の山中を、四通八達に行軍した、その総合計だろう″という声が、「漢の長里説」をあてはめようとする論者から出てくることになる。

 しかし、では問おう。そんな〝山中の四通八達の行軍距離″など、どうして測る必要があるのか、また、どうして測りうるのか、と。要するに、論争を〝うやむや″にもちこむためのテクニックにすぎないのではなかろうか。それを「不定化の方法」とわたしは名づけたい。

 「1里=75~90メートル」では大まかすぎる。古田さんの探求は続く。もっと精密な里単位を知ることはできないか、と。

 その方法が見つかった。意外にも、それは倭人伝にあった。

(一大国)方三百里なる可し。

 この一大国が壱岐の島であることは、ほぼ疑いがない。狗邪韓国(釜山あたり)から対海国(対馬の下県郡)、対海国から一大国(壱岐)、一大国から末盧国(松浦湾岸の唐津あたりか)と渡ってくるルートは、昔も今も、変わりようのない地形である。日本列島が大陸にくっついていた、などという氷河期ならいざ知らず、三世紀と二十世紀など、巨大な地質年代の基準尺からいえば、同一時期。同じ現代とさえいえるかもしれぬ。

 そこで測ってみた。

壱岐島地図
(画面をクリックすると大きくなります。)

 このように「一里=90メートル」では〝すきま″があきすぎる。「一里=75メートル」の方が適切だ。もちろん、若干の浸蝕や変動は、三~二十世紀の間にありえよう。しかし、大約はこれで見通すことができる。わたしはそう考えた。

 とすると、韓地で測った「里単位」をこの一大国で〝徴差調整″すると、75メートルに近い数値だ。そこで「75~90メートルの中で、75メートルに近い数値」、そういう結論をえたのである。この数値は、のちにのべるように、思いがけぬところから追証されることとなった。わたしはこれを「魏・西晋朝の短里」と名づけた。

 古田さんの解読の正しさを理解するのに、秀才・偉才の誉れ高い学者級の頭脳は必要ない。私のような凡才でも理解できる。この後「追証」の記述が続くが、私(たち)にはもうこれで十分だろう。ただ追記しておくと、「追証」に対しても、秀才・偉才の誉れ高い学者たちから、「不定化の方法」という子供じみたイチャモンが出てきたという。恥の上塗りをしているだけだ。いい加減に目を覚ましなさい!!

 最後に古田さんは、史記の里程記事(漢の長里)とを対比した上で、「里程問題」を次のように結んでいる。

 歴史書では、そこに使われたキロやメートルについて、いちいちその実定値はいくらいくら、などと書きはしない。その知識は、著者と読者と「共通の教養の土俵」にいるからである。

 これに対し、右のような一国の使者の異国への派遣、その行路の報告、その個所においてこそ、その王朝の採用した正規の「里単位」がどうどうとそこにしめされるのであった。史記では、大宛列伝、三国志では、倭人伝、それらこそ、それぞれの歴史書の中でももっとも晴れがましい、いわば晴れの舞台だったのであった。

 倭人伝を法外の誇張として嘲笑してきた、明治以来の研究史に終止符を打ち、本来の倭人伝の面目を人々が正視するとき、その時節が今、ようやく到来したようである。


 悲しいかな、真実を正視できない学会という閉鎖集団には、いまだその時節は遙かに遠い。
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