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《「真説・古代史」拾遺編》(62)

「邪馬台国」論争は終わっている。(1)


 古田さんによると、最初の邪馬台国近畿説論者は松下見林(けんりん 1637~1703)で、見林は『異称日本伝』で、次のような趣旨を述べていると言う。

「卑弥呼は倭国の女王である。わが国で『王』といえば、天皇家のみ。その天皇家は、光仁天皇まで、代々大和(やまと)におられた。だから『ヤマト』と読めなければいけない。読めなければ、それは外国人 ― この場合、中国人 ― がまちがえたに決まっている。だから、読めるように直せばいい」

 このイデオロギーのもと、『魏志倭人伝』の中の「邪馬壹国(やまいちこく)」を「邪馬臺国」と書き変え、これを「ヤマト」と読んだ。「壹」と「臺」は似ているから、『魏志倭人伝』の書き手が間違えたのだというわけだ。現在は「臺」の代わりに「台」を用いているが、どちらにしても「ト」とは読めない。だからさすがに今は「ヤマタイ」と読みならわしている。

 結論が先にあって、全てをそれに当てはめようとする。このような学問とは言えない方法を、現代でも踏襲している学者がいる。情けない。

 古田さんは第一史料(今の場合『魏志倭人伝』 以下単に「倭人伝」と呼ぶ。)を、その史料の成り立ちのルールに従って読むという堅実な方法論に立脚して「邪馬台国」論争に決着を付けた。古田さんが解読した結論が正しいことを考古学的遺跡や出土品も保証している。以下、古田さんの解読のあらましをまとめてみようと思う。(以下、講演録「邪馬台国論争は終った=その地点から」を用います。)

 まず、国名問題(「壹」→「臺」という書き換え問題)について、三国志の全版本が「邪馬壹国」(壹の代わりに「一」を用いているものもあるという)となっている事実を確認している。さらに、三国志に用いられている「壹」(86個)と「臺」(56個)を全て調べ、「壹」と「臺」を取り違えている例が皆無であることまで確認している。

 もう一つ、『「邪馬台国」はなかった』執筆の段階ではまだはっきりと主張されてはいなかったことがある。
「古代、中国にかぎらず、一般に近隣諸国の国名や王名をいわゆる卑字で書き表していた。「邪馬国」の「邪」や「馬」は卑字である。では「臺」の字は?」
という問題である。その後新しい発見があって、この問題が一層はっきりと解かれ、「邪馬国」という表記はあり得ないという強力な論証となった。これは少し詳しく紹介しよう。

 次の文は『三国志』の中の「蜀志(しょくし)」の中にある。5世紀の注釈者・裴松之が書いた文章だ。

「臣松之(しょうし)、案ずるに、魏臺(ぎだい)、物故の義を訪う。高堂隆(こうどうりゆう)、答えて曰く『之を先師に聞く。物は無なり。故は事なり。復(また)事に能くする無きを云うなり』と。」

 魏臺が高堂隆という人に「物故」の意味を聞いた。これに対して高堂隆は、自分の先生から聞いた話として、「物故」の意味を説明した、という話が書かれている。

 魏では「臺」とは「天子の居処・宮殿」を表す言葉として用いられていた。上の引用文の場合、「魏臺」というのは、「訪う」の主語だから「宮殿」ではなくて、当然人間だ。一方、高堂隆という人物は魏の明帝のときの最高の名臣と記録されている。この高堂隆に魏臺が質問しているというのだから、「魏臺」というのは当然「魏の天子」、つまり明帝をさすことになる。
 この例から見ますと、魏臺の「臺」は天子をさすのではないか。だいぶ後世ですが、江戸時代には「殿」とか「殿様」というようなことをいいます。その場合は、当然御殿に住んでいる主人公をさしています。あれと同じ伝(でん)で、“洛陽の宮殿”といういい方で、宮殿の中心に住んでいる“天子それ自身”をさす。こういう代名詞みたいな用語なわけです。ですから「臺」というのは天子一人をさしているのではないか、こう考えたわけです。

 しかしながら、史料的にいいまして、裴松之の地の文章の形をとっておりますので、5世紀の文章だと一応考えられる。3世紀の文章だといきなりいえない点があるのです。もちろん問答体ですから、裴松之が引用したそのバックは、当然3世紀の魏の時代、明帝の時代の文章だったろう、と想像したんです。ただ史料上ひっかかるところがあったので、あまり大っぴらには出さなかったのです。・・・「伝統と現代」(26、昭49・3)の中の論文(邪馬壹国の論理性 ― 「邪馬台国」論者の反応について)でちょっとふれたところがありますが、『「邪馬台国」はなかった』では出さなかったのです。

 ところが、これについて新しい史料が見つかったわけです。

 『隋書』「経籍志」です。中国の正史には、「地理志」とか、「礼儀志」とか、「音楽志」とかあることは皆さんお聞きになっことがあると思いますが、『隋書』以前にはなかったものが「経籍志」です。つまり7世紀はじめの隋の時代に、中国の朝廷を中心としたところに存在したすべての本の名前があげてあるのです。現代の学者にとっては非常にありがたい便利なものです。この時代にはたしかにこの本はあったという確認がとれるわけです。この『隋書』「経籍志」の中にこういう本があることを私はこんど見つけたのです。

 といいますのは、「魏臺雑訪議(ぎたいざつほうぎ) 三巻 高堂隆撰」です。当然著者は高堂隆です。内容は、「魏臺雑訪議」というのですから、いろいろの問題について“魏臺が訪うたことについての高堂隆の答え”その問答を書いた本です。ですから、先ほどの裴松之が書いた、そのバックの本がわかったわけです。当然隋の時代にこれは残っていますから(現在は残っていないのですが)、5世紀、つまり2世紀前の裴松之は当然それを見ていたわけです。それをバックにさっきの文章が書いてあるわけです。要約して「物故」問題だけを取り上げたので ― 裴松之というのは厳密な人ですから ― 「魏臺雑訪議に曰く」という直接法の形にせずに、自分の文章の形にして要約文を出したのです。それがわかってきたわけです。

 そうしますと、魏の朝廷の中の高堂隆の書いた本ですから、まさに第一史料ですね。その魏朝において、「魏臺」というのは、戦前、「上御一人」という言葉がありましたけれども、それをさしているということがわかってきたわけです。そうしますと、魏朝(次いで西晋朝ですが)の雰囲気の中で、高堂隆よりずっと下級官僚である陳寿(ちんじゅ)が、「邪馬臺(たい)」などと、天子一人をさす「臺」の字を持ってきて表記するということは、絶対にあり得ない。「ダイ」に当てる字はいくらでもあるんですから。厳密に同音を当てても、十や二十ではないのです。自分たちのみならず、高堂隆などの高位の臣下が天子を「臺」と呼んでいるのです。だのに、片方で卑弥呼の「卑」だの、「邪」だの、「馬」の字を使いながら、同じ字面に天子をさす「臺」を使うなどということは、これはどう間違ってもあることではない。このことを『「邪馬台国」はなかった』のとき以上にはっきりと確信したわけです。
 

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