2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(61)

あいかわらず破廉恥な考古学会


 今回は、「地名奪還大作戦」を中断して、「邪馬壹国(やまいちこく)」を取り上げたい。と、いう気になったのは次の新聞記事(5月29日付「東京新聞・夕刊)による。写真付きでかなり目に付く記事だ。
箸墓古墳は『卑弥呼の墓』濃厚
 炭素年代測定死亡と築造の時期一致


 邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)の墓説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造時期が、土器などの科学的分析で240~260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で分かった。

 中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は248年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾(はるなりひでじ)同館名誉教授(考古学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に二分される邪馬台国の所在地論争に大きな影響を与えそうだ。

 箸墓古墳は、三世紀初めごろに出現した当時国内最大の集落跡、纒向(まきむく)遺跡にある全長280メートルの前方後円墳。宮内庁が陵墓に指定しているため、墳丘内の発掘はできず、周辺の調査で見つかった土器などが年代を知る手掛かりになっていた。

(中略)

 研究成果は、日本考古学協会総会で31日に発表する。
(以下略す)

 「畿内説と九州説に二分される邪馬台国の所在地論争に大きな影響を与えそうだ。」とは恐れ入った。古田さんの著書『邪馬台国」はなかった』が出版されたのは1971年。その後も古田理論は成長を続けて、さらに精緻にして堅固な理論となっている。その古田理論に背を向けて、いまだに「近畿説」にしがみついて恥じない学者がいるとは!! もしあいかわらず「近畿説」に固執するのなら、古田理論を真っ正面から取り上げ、キチンと反論批判をするのが学者としてのまっとうな態度だろう。まともな反論ができないままに自説にこだわるのなら、それはもう学者とは言えない。

 上記引用記事にあるように「研究成果は、日本考古学協会総会で31日に発表」された。東京新聞夕刊の6月2日付の『月間・歴史考古ニュース』という記事で、そのことが報告されている。現在その欄は坂詰秀一(さかづめひでいち)という考古学者が担当している。上記記事とほとんど同じことを書いている。

「箸墓」土器の測定
 卑弥呼死亡の年代ほぼ一致


 日本考古学協会第75回総会が5月30、31日に早稲田大で開催された。研究発表会で春成秀爾氏など国立歴史民俗博物館のメンバーは、前方後円墳「箸墓」(奈良・桜井)の周壕築造直後の土器の年代を「放射性炭素年代測定法」によって測定した結果、240~260年代と推定されたと報告した。この推定は『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼の死の年代とほぼ一致し、前方後円墳の出現とその背景めぐる問題に一石を投じ、邪馬台国近畿説の証跡かと注目された。



 違う点が一つある。「前方後円墳の出現とその背景めぐる問題に一石を投じ」たという観点が付け加わっている。この「前方後円墳の出現とその背景めぐる問題」についても古田さんはすでに詳しく論究している。

 「邪馬台国近畿説」を支えていた論拠は大きく4つある。古田さんの論考によって、それらは既に破綻している。その4つの論拠を簡単にまとめておこう。(詳しい論証は追々紹介していきます。)


 「ヤマト(大和)」と結びつけたいと、『魏志倭人伝』の原文にある「邪馬壹国」の「壹」は「臺」の誤りと原文ご都合改定をして、邪馬臺国=邪馬台国はヤマト(大和)にあったとした。

 「邪馬台国」を「ヤマト(大和)」に連れて行くために、同じく『魏志倭人伝』の原文の中の「南」は「東」の間違いとし、原文ご都合改定した。

 卑弥呼(ひみか)が魏からもらった「鏡百枚」は三角縁神獣鏡であり、この鏡は奈良から大量に出土している。だから邪馬台国はヤマト(大和)と主張した。しかし、全ての三角縁神獣鏡が中国製ではなく国産品であることが判明した。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼の「居処」は環濠集落であったと伝えている。環濠集落遺跡は「ヤマト(大和)」にしかない。だから邪馬臺国はヤマト(大和)と主張した。これも吉野ヶ里遺跡の出現で反故になった。

 このような事情にもかかわらず、上の記事のように、考古学的新発見がある度にその報告の中に、学者たちは既に破綻したはずの「邪馬臺国近畿説」をこっそりと忍び込ませる。この破廉恥とも言える言動を促す心的機制はいったい何なのだろう。実は上記「4」はきちんとした論文で主張されたことはない。このことについて、古田さんは次のように述べている。(『吉野ヶ里の秘密』より)

 奈良県の、有名な唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡や大阪府堺市の池上(いけがみ)、四ツ池(よついけ)遺跡。みな外濠に囲まれた集落群だ。唐古は特に大きい。これに対して、九州には環濠集落はなかった。(一部分くらいはあっても)とても、こんな大きなものは見いだされていなかったのである。「やっぱり、『邪馬台国』は近畿だ。三角縁神獣鏡が、いろいろいわれたって、大丈夫。環濠集落があるから、な」これが近畿説の学者たちの間の“ささやき”だった。

 “ささやき”といったのは、ほかでもない。論文がないからだ。「環濠集落の問題から見ても、『邪馬台国』は近畿である」こういった論文は作成しにくい。なぜなら、そこ(環濠集落問題)から、ここ(邪馬台国問題)までは、まだ“あいだ”があきすぎている。越えなければならぬ、ハードル(障害物)がいくつもあるからだ。いわく、「邪馬壱国」から「邪馬台国」への“手直し”問題。いわく、「南」から「東」への“手直し”問題。いわく、「三角縁神獣鏡、中国製」否定説への対応問題。

 これらのハードルをそのままにしておいて、いきなり「答えは、邪馬台国」では、論文にはなりにくい。論証のていをなさないからだ。だから、環濠集落を根拠として、邪馬台国を「主題」とする、そんな論文は現われていないのだ。だから、わたしは“ささやき”といった。

 けれども、「手」は残されている。考古学者にとって、もっとも“親密なレポート”、発掘報告書の中に、「近畿邪馬台国説」を“しのびこませる”のだ。“環濠集落から見ても疑いがたい”そういう“匂におい”をたきこめるのだ。そういう報告書は、数多く“出まわっている”のである。うるさい“古田など”の反論に出合わない、そこは「天国」である。しかも、費用は公費。国民の税金(わたしのも、一部分は入っていよう)、あるいは土地会社などの拠出(きょしゅつ)金なのだ。

 渋い話になったのを許してほしい。だが、わたしのいいたいのは、こうだ。発掘報告書は、事実を書く。それが基本だ。すべてをつらぬく魂。そういっていいすぎではないであろう。なんで、こんな当たり前のことを書くか。それは「説」でおおわれた報告書が少なくないからだ。ひどいのになると、その報告者の「先生」の説を立証する。そういった形で、長い報告書がつづられる。そういった感じのものも少なくないようである。

 同じ考古学者同士なら、その報告書を読んだだけで、「ああ、この男の先生は、誰々だな」と、見当がつくという。わたしなどには、とても、そこまでは分からないけれど。 しかも、学界に有名となった「名発掘報告書」ほど、その「臭におい」がきつい。つまり、名前は「報告書」でも、その実、「特定学説の陳述書」となっているのだ。

 こういっただけでは、無責任だから、一つだけ、例をあげておこう。昨年、発見されて有名となった、千葉県の稲荷台(いなりだい)古墳。銀象眼の文字「王賜・・・敬」をもつ、鉄剣の現われた古墳の報告概要。「稲荷台一号墳出土の『王賜』銘鉄剣」(昭和63年1月11日、市原市。財団法人市原文化財センター)これは、千葉県にある国立歴史民俗博物館の方々の手になるものだ。「名報告書」として、吉川弘文館で直ちに公刊されたが、その内容は、同博物館生みの親、故・井上光貞さん、それに京大の故・岸俊男さん等の「獲加多支(わかたける)大王=雄略天皇説」(「近畿が関東を支配していた」という立場の読解法)を前提とし、それを裏づける形で、「論」が立てられている。こういうものが、「たんなる報告」に終わらぬ、“いい報告書”とされているのだ。

 「師説を補強する」それはまことに、“後継者”のうるわしい所業かもしれぬ。けれと、それは、堂々たる論文の場ですべきこと。すくなくとも、「発掘報告書」のやる仕事ではない。そう思う、わたしの頭の方が“おかしい”のだろうか。

 さて、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるはずはない。その古田さんの論証のあらましは次のようである。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓について「「大いに冢(ちょう)を作る」と言っている。「冢」と「墳」は異なる。「冢」とは「棺を容るるに足る」程度のものだ。また『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓の大きさを「径百余歩」と言っている。これは直径のおおきさを述べている文であり、卑弥呼の墓は前方後円墳ではなく円墳である。またその直径は、古田さんが解明した魏時代の長さの単位(短里)で計算すると、百余歩=30~35メートルである。一方、箸墓古墳は前方後円墳であり、墳丘の長さは276メートル、後円部の直径は156メートルである。

 箸墓古墳を卑弥呼の墓とする論者は「長里」を使って計算して、大きさが一致すると主張している。長里で邪馬壹国の在処を決めようとすると、邪馬壹国ははるか海の彼方になってしまう。「長里」を用いる論者は、『魏志倭人伝』が誇大に記録したのだと、言い逃れてる。

 「短里・長里」問題について、古田さんは次のようにまとめている。(「日本国家に求める 箸墓発掘の学問的基礎」より)

 わたしはこの「短里」問題に対して、従来くりかえし論じつづけてきた。その要点(の一端)を左に摘示しよう。

(一)
 倭人伝中の「其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。」の一句は、大陸側(中国内部)と朝鮮半島・日本列島側(帯方郡・韓国・倭国。「万二千余里」)とが「同一の里制」に依拠していなければ、成り立ちえない。

(二)
 倭人伝中の「其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里。」は中国直轄領(帯方郡)や、旧・中国直轄領(漢の四郡。「韓国」を含む。)を内包する「里程」であるから、中国本土と別里程ではありえない。

(三)
 倭人伝の内容は、中国(帯方郡)から倭国へ派遣された使者(梯儁・張政等)からの報告書(軍事報告)を「基礎資料」として作製されたと考えられる。その中国の天子に対する報告書で使用された「里程」が、中国(魏・西晋の天子)内部の「里制」と全く異なる(五~六倍の大差をもつ)里単位で書かれる、というような事態は全くありえない。

(四)
 計測の専門家たる谷本茂氏が周密な計算で確認されたように、周代の天文・数学書として著名な『周髀算経』は、「周朝の短里」(一里=約77メートル)で記せられている。しかも、その編集・成書時期は「漢末」であり、魏朝成立の直前に当っている。すなわち、同じく「一里=77メートル」近い数値をしめす「魏・西晋朝の短里」と無関係とは思われない。すなわち、後者は「前者の復活」である。

(五)
 従来、依拠されてきた「史記・秦始皇紀」の「六尺、歩と為す。」の一句は、五行思想(秦を「水徳」あり、とし、「六」字に配当)による、イデオロギー的「新制」であった。それ故、「一歩」は「六尺」(一尺=約23センチ。六尺=138センチ)となり、人間などの通例の「一歩」とは全く“かけはなれ”ている。超巨人の「超一歩」だ。
 これに対し「周朝の短里」にもとづく「周朝の短歩」の場合は、「約26センチ」であるから、左の典拠とよく対応している。

歩----長さの単位。「ひとあし」
  貍歩を以てす(周礼、夏官、射人)
  〈注〉鄭司農云、貍歩は、一挙足して歩を為すを謂う。今に於いて半歩為り。

 「貍」は“野猫”であるから、人間の「しのび足」の一歩をしめす。その「一歩」は、後には「半歩」に当る、というのであろうか。ともあれ、「長歩(138センチ)」では、到底妥当しえないけれど、「短歩(約26センチ)」の場合、「静歩」として、十分妥当しうるのではあるまいか。おそらく、動詞の「歩む」と名詞の「歩」とは、本来キッチリと“相対応していた”のであろう。

(六)
 先述のように、壱岐島が現状の36倍もの巨大島ではありえないのと同じく、日本列島に「直径125メートル以上」もの「円墳」は存在しない。ために論者は、或いは「方部カット」の描写(A)と考えたり、「方部後造」(河上氏)といったアイデアに腐心せねばならなかった。

 しかし、「短里」の場合、「百余歩=26メートル以上」であるから、吉野ケ里にも見られたように、弥生期の墓として何の他奇もない。あの吉武高木遺跡や三雲・須玖岡本・井原・平原などの王墓も、現在は「民家」や「田畑」や「果樹園」の“地下”から出土した形だけれど、本来はその上に“円形の山盛り”の存在したこと、疑いがたい。(吉武高木の西南に当る「樋渡遺跡」にその“原形”が存した。現在は削平。)

 すなわち、右のように壮麗な「三種の宝物(神器)」をもつ王墓が、「二十~三十メートル」級の“盛り土”をもっていたとしても、何の不思議もない。かえってそれらが一切「ない」方が奇態なのである。

(七)
 なお論者の中には「大いに冢を作る」の一句に対し、「大いなる墳を作る」の意として「錯認」している人も存在するようである。「大作冢」と「作大墳」のちがいである。用語(冢と墳)と文脈(「大」の修飾対象)を異にしているのである。

(八)
 さらに「穆天子伝」(周代)に使用せられた「周朝の短里」を先範として、西晋の陳寿は、同じく「魏・西晋朝の短里」によって倭人伝を書いた。この点、今夏(8月)、中国の蘭州(甘粛省)で行われた、物理学・日中国際学会において、日本の理論物理学者、上村正康教授(九州大学)が発表された。「蘭州~九州(博多)」間の古代交渉に関する紹介とその(古田の説の)理論的基礎を代表報告の冒頭に述べられたのであった。

 けれども、右の(一)~(八)とも、肝心の日本の古代史学会、ことに考古学会において「討論」せられた、との話は全く聞いたことがない。不可解である。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1282-2301454f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック