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《「真説・古代史」拾遺編》(60)

地名奪還大作戦(8):難波=筑前博多(5)


 「地名奪還大作戦:難波=筑前博多」は前回まででもう十分だろうと思っていたが、追加したいことが出てきた。もう一回おつきあいください。

 昨日、古田さんの講演録『真実の近畿-三世紀以後』を読んでビックリした。「難波=筑前博多」の論証を語っている。私が不満のまま終えていた数々の事項が見事に明かされている。この講演録を先に読んでいれば、きっちりとまとまりのある記事が書けたのにと、盛んに残念がっています。

 それにしても、今更ながら古田さんの力量には感服する。古今東西の史料と考古学の最新成果とこれまでの学者たちの論文がすっかり頭に入っているようだ。まさに博覧強記の人だ。それともう一つ、古田さんは「歴史学は足で学ばねばならぬ。」ということを金科玉条としている。現地に足を運んで自分の目で確認する。それが古田さんの論理構築をさらに揺るぎないものとしている。

 さて、上記の講演録で新たに分かったことを紹介していこう。まず、古田さんが「難波」問題に関心を持ったきっかけは、「古田武彦と古代史を研究する会」高木さんに案内されて、「難波池」の存在を知ったことであるという。この池のことを古田さんは、おおよそ次のように説明している。

 博多に「難波」という字名があったという典拠は『明治前期全国小字調査書』(内務省地理局編纂基本行書、ユマニ書房刊、第二次世界大戦の空襲で、ほとんど消失、北部九州と青森が残る)だった。そこには「難波(なにわ)と書かれている。「難波池」はかなりの広さのよどんだ池で、土地の人は今は「なんば」池と呼んでいる。そこは、現在では住宅建設で段々埋められてしまっているが、もともとは海につながっていた海岸部だった。現在残っている池もやがては住宅建設で埋められて、やがて姿を消すだろう。

 次は、黒姫説話の歌謡の中に出てくる四つの島「淡島(あわしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の島 放つ島(さけつしま)」について。いままでの記事で比定できたのは「自凝島=能古島」だけだが、古田さんは「淡島」と「檳榔の島」もはっきりと比定している。

 百科事典によると、日本列島で檳榔が植生しているのは南九州・九州西岸部・九州の北の玄界灘。その玄界灘の小呂島(おろのしま)と沖の島に檳榔が生えている。小呂島の位置は壱岐島の東30キロぐらい、沖の島の南40キロぐらいだろうか。能古島からは北西方向に30キロぐらい離れている(距離は小さな地図上での推測だからかなり大雑把なもの)。沖の島が檳榔植生の北限だという。だから朝鮮半島には檳榔は植生していない。東の方では九州の東岸部(大分県)には檳榔はない。瀬戸内海もだめ。淡路島近辺ももちろんだめ。この歌は淡路島では作れない。

 この歌の作者の立つ位置は、博多湾を玄界灘に出て少し北へ行ったあたり。振り返れば目の前に能古島が見え、前の方の左手に小呂島が見える。「放つ島」は固有名詞ではなく、「遠く離れた島」だろう。そのあたりは島はたくさんある。沖の島や壱岐島が見えるだろう。たぶん対馬も見えるのではないか。では「淡島」はどこだろう。「淡島」という地名はどこを探してもない。ここからが古田さんの真骨頂である。

 ですが、わたしには「淡島」 に見覚えがあった。何だろう。三月の終わりになって神社だと気付いた。淡島神社だ。末社・摂社は幾らでもある。それを思い出した。近くに淡島神社があるのではないか。それで『福岡県神社誌』を見るとあった。宗像神社の近いところ福岡県福間町に淡島神社があった。

 それから東を見れば「淡島」が見える。(淡島神社が見える。)それでこの歌の理解には、データはぜんぶ揃った。

 そこから先は、私はあらためてこの歌をそうだと思った。別の理解から、再度考えてみた。淡島神社は各地にある。和歌山県は加太にもある。大分県にもある。末社・摂社は幾らでもたくさんある。いくらあっても淡島神社の御祭神は、ぜんぶ決まっている。それは少名彦名(すくなひこな)命である。



 少名彦名は大国主と出雲の国を共同経営した神だが、国が形を整えるとすぐ、「もう出雲には興味がない。私は常世の国に行く。」と去ってしまう。まるで革命後キューバを去っていったゲバラみたいにかっこいい神様だ。古田さんは、この少名彦名は博多湾岸、須玖(すく)岡本にいた王者であり、例の歌を作った本来の主人公である、という仮説を立てている。

 この歌では少名彦名は、博多湾岸を出ていく時とうぜん振り返った。「我が国」というのは須玖の王者ですから少名彦名にとって、博多湾岸はとうぜん我が国です。わが国の一部分という言い方ではない。振り返ればとうぜん私の国だ。そういう言いかたをしている。少名彦名には、まことによく当てはまる。博多湾岸に淡島という少名彦名を祀っている神社がある。そこを「淡島」と呼ぶのを少名彦名が歌うのがまことにふさわしい。

 一番ふさわしいのは、これから彼はどこへ行こうとしているのか。少名彦名は常世の国に行こうとして、わが国を出発しょうとしている。「檳榔の島も見ゆ」と言っているのは、ただ小呂島に檳榔が生えていて見えていたから言っただけという話ではない。つまり檳榔が見えるということは、檳榔の本家本元である常世の国・熱帯地方に行こうとした。そこへ行く少名彦名物語の終りに近い一節だと私は理解した。

(中略)

 この少名彦名の出発の時間帯は「天孫降臨」の前です。ですから「天孫降臨」は、少名彦名の留守をねらって筑紫を襲った。大国主に国を譲れという言いかたをして、大国主が留守預りであった板付という日本最大の縄文水田の地帯を襲った。これは留守狙いだ。

 この話なら、三世紀の『魏志倭人伝』より前。また天孫降臨の前。この少名彦名の話なら本来は弥生前期の終わり頃。今までの編年で言うとBC100年以前。年輪年代測定法では100年遡らせねばならないと言っているから、それで言うとBC200年以前(天孫降臨の前)。その前後ですからBC250年ぐらい前。

(中略)

 これはわたしの仮説なのですが、主語は少名彦名であると理解すれば、この歌は後ぜんぶ合う。大阪湾仁徳だったらぜんぜん駄目であるけれども、少名彦名博多湾なら完全に合う。


 このあと古田さんは、「今のところ想像にすぎないが」と断ったうえで、少名彦名が帰ろうとしている熱帯にある「常世の国」と魏志倭人伝に出てくる「裸国・黒歯国」を結びつける論を展開している。たいへんおもしろい仮説だが、ここでは割愛する。

 最後にもう一点、新庄さんが謡曲『蘆刈』の中の一節「難波津に、さくやこの花冬ごもり、今は春べと咲くやこの花」を取り上げていたが、この歌についても古田さんは瞠目すべき論を展開している。

 この歌は謡曲『難波』にも出てくる。いろいろなところで使われているようだ。古今集仮名序の中にも出てくる。古田さんは古今集仮名序の中に出てくる歌として知っていた。古今集仮名序では、この歌に次のような注釈が付いている。

おほさゝぎのみかど、なにはづにて、みことをきこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁という人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける哥也。この花はむめの花をいふなるべし。

 この歌について古田さんは気になっていたことが二つあったと言う。一つは、大阪市に此花(このはな)区がある。この歌の舞台は大阪なのだろうかということが気になっていた。大阪市此花区役所に電話して確かめたそうだ。何のことはない。大正14年此花区が北区から分区するとき、古今集のこの歌にちなんで此花区と名付けましたということだった。従来の古代史学者や万葉学者へのいい教訓だ。『いま地名があるからというだけで「ご当地ソング」と決めつけてはいけない。』

 二つ目は、この歌は王仁が仁徳(おほさゝぎ)に奉ったものだという古今集仮名序の注。王仁は日本人ではない。百済人か中国人。その人がこのような日本語の歌を作った?

 この「難波津(なにわず)」も九州博多湾と考えても良いのではないか。そのように考えてきました。そういう視点から見ると簡単に答えが出て来ました。

(中略)

 この天孫降臨を行ったのは誰か。それは天照大神(あまてるおおかみ)の孫に当たる邇邇藝命(ににぎのみこと)が博多湾岸に侵攻した。・・・『古事記』に書いてあるように「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」に降りた。筑紫の日向、吉武高木遺跡があるところが日向です。すぐ西側にある山が高祖(たかす)山連峰の日向山、日向峠。そこから博多側に流れ出している川が日向川。日向川が室見川に合流するところにわが国最古の三種の宝物が出ました先ほどの吉武高木遺跡。

 そこでニニギノミコト、わたしが言う九州王朝の初代。そのニニギが海岸を歩いていたとき博多湾岸だと思いますが、出会ったのが木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)。そうしますと、この歌はコノハナサクヤヒメが対象になった歌であるとわたしは考えます。

「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまは はるべと さくや このはな」

 この短い五・七・五の中に、二回も「このはな」という代名詞が出てくる。このように「このはな」が二回も出てくる歌は、普通はいやらしい話です。ところが花之佐久夜毘亮が歌われていると考えるなら良くわかる。

 コノハナサクヤヒメがニニギと結婚して、今で言う御成婚の時の歌。即位の式の歌。この時歌われたコノハナサクヤヒメ側の歌である。ニニギ側の歌もあったはずだ。それは今は伝わっていない。そのように理解してきました。

 そうしますと、この歌が解けてきます。王仁はまず百済から博多湾岸に来た。そこでこの歌を知った。それで次に大阪湾に来た。そうすると近畿の大阪湾で即位をめぐって兄弟で、もめていた。「やめなさい!」と王仁が、ニニギがコノハナサクヤヒメと結婚してうまく行ったという話があるではないか、そう思ってこの歌を持ってきた。外国人である自分が、直接そう言うのは生意気だから、この歌を書いたものを持ってきて彼らに進呈した。仲良くしなさいと示唆した。そう考えると疑問が解け、分かります。王仁が自分で、日本語のこの歌を作って差し出したと考えるとおかしい。話がめちゃめちゃになってしまう。それでわたしとしては、この歌のいちおうの理解ができたと考えております。



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