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《「真説・古代史」拾遺編》(59)

地名奪還大作戦(7):難波=筑前博多(4)


 新庄さんの論文『弱法師(よろぼし)』を紹介する前に、ちょっと長い前置きをします。

 東京新聞夕刊に梅原猛さんが「思うままに」というエッセイを連載している。5月25日のエッセイに次のくだりがあった。

 私の主著とされる『隠された十字架―法隆寺論』や『水底の歌ー柿本人麿論』はデカルトの方法論によって書かれている。それはまず通説への懐疑があり、その懐疑の末に新しい仮説の直観があり、そしてその仮説を帰納と演繹によって粘り強く証明し、そこに一つの理論的体系を構築するという方法である。



 その方法と成果を相当に自負されていらっしゃる。しかし、その方法を徹底しきれなければ、その成果にも大きな瑕疵がでてくる。梅原さんほどの方でもそうした陥穽に陥ちいる。私のような素人が書く文章は、できるだけ論理的にと心懸けているが、恐らく隙だらけだろうと危惧している。

 梅原さんの自負にかかわらず、『水底の歌―柿本人麿論』の結論には決定的な瑕疵がある。この稿には関係がないので深入りしないが、古田さんが厳しく批判しているので紹介しておこう。

「歴史と歌の真実―人麿終焉の地をめぐって」

 仮説を立て、科学的方法論でそれを論証する。それには異論はないが、その前提、いわば数学で言う「公理」が間違っていては全理論が無効になってしまう。『隠された十字架―法隆寺論』がそのいい例である。ヤマト王権一次元主義という間違った「公理」を大前提に理論を進めているための破綻である。

 一見、今回のテーマと関係ない話をしてきたが、じつは新庄さんの『弱法師』が、『隠された十字架』を引き合いに出しながら論を進めているので、梅原さんのエッセイの上記引用部分に注意が引かれたのだった。そして、新庄さんの論旨を理解するには、あらかじめ正しい『法隆寺論』が必要だと思った。詳しくは 「真説古代史(8)―日出ずる処の天子 をご覧いただくとして、取りあえず要点をまとめておく。

 『隋書俀国伝』の解読から判明したこと。

 「日出ずる処の天子」を称したは、推古天皇や聖徳太子ではなく、九州王朝の天子「多利思北孤(たりしほこ)」である。
2(「真説古代史(8)」では割愛した部分なので、ちょっと詳しく書き留める。もちろん、古田理論です。)
 『俀国伝』中の「名太子為利歌弥多弗利」を従来は「太子を名付けてリカミタフツリと為す。」と訓んでいたが、「リ・・・リ」などど、「リ」で始まり「リ」で終わるような名辞は日本語にはない。これは「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」という字地名がある。多利思北孤が送った国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は"衆生利益"の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。すなわち、「多利思北孤」と「歌弥多弗の利」は王とその太子であり、「和風称号」(多利思北孤)と「一字名称」(利)とを交て用いている。「一字名称」は、当然「倭の五王」以来の伝統の継承である。

 法隆寺釈迦三尊像の光背銘の解読から判明したこと。

 銘に記された「上宮(じょうぐう)法皇」とは多利思北孤のことである。

 以上より、『日本書紀』は聖徳太子を「上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)」と呼称しているが、「上宮太子(じょうぐうたいし)」という呼称にふさわしいのは多利思北孤の皇子「利」である。「白村江の戦」のとき唐に捕囚された「筑紫君薩夜麻(さちやま)」はこの皇子ではないだろうか。

 では、新庄さんの論文を紹介しよう。

『弱法師』の粗筋
「河内国高安の里の左衛門尉通俊(みちとし)は、人の讒言を信じ、その子俊徳丸を追放してしまう。しかし、すぐにそれが偽りであることがわかって悔い、我が子の二世安楽を祈って難波の天王寺で施行を行う。一方、俊徳丸は悲しみのあまり盲目となり、今は弱法師と呼ばれる乞食になっている。俊徳丸は施行を受けるため、杖を頼りによろめきながら天王寺にやって来る。折りしも春の彼岸の中日、梅の花が盛んに散りかかる中で、弱法師は仏の慈悲をたたえ、仏法最初の天王寺建立の縁起を物語る。その姿を見て、通俊はその弱法師こそ我が子であると知るが、人目をはばかって夜になってから名乗ることにし、弱法師に日想観を拝むようにと勧める。弱法師は入り日を拝み、かつては見慣れていた難波の美しい風景を心に思い浮かべ、興奮のあまり狂ったようによろばい歩く。やがて夜も更け人影もとだえると、通俊が名乗り出る。俊徳丸は我が身を恥じて逃げようとするが、父はその手を取り、連れ立って高安の里に帰って行く。」

 梅花匂う難波津の春、仏教初伝の頃の仏閣を中心として、殷賑を極めた博多(難波)の物語です。河内国高安とは今の武雄の近く、おつぼ山神護石の辺りではないでしょうか。佐賀県です。高安とは烽火のあった所と聞きます。父親は随分遠い所までこの仏に祈りたいと出かけてきたのです。いかにこの寺が筑紫だけではなくて各地に知れわたっていたことかと察するのです。

 ところが例によって、関西の謡曲作者はこの四天王寺を大坂に据えて、摂津の国を津の国の難波と言い換えて(この時代関西に難波はありません)、大阪の四天王寺の話と思わせるように書いています。従って河内の高安も東大坂と見てくれるようにと書き直しているのです。また須磨明石等と「博多の難波」とは何の関係もない地名を差し込んでみたりしています。

 しかし、この謡は概ね原作のままではないかと思えるほど言語表現が素晴らしく曲ともよく合っています。そこで、私は筑紫の物語であることを明らかにしてみたいと思い立ちました。

 この謡曲は言います。仏教興隆に伴い日本最初の仏閣を「津の国難波津」に建てられたのは上宮太子であると。大阪は「摂津」の国で「津」の国ではありません。寺の名は四天子寺と。そこまでは博多の辺りを思い浮かべて頷きました。ところが次の文字に私は仰天、なんとご本尊は「救世(くせ)観音」であると。

 救世観音が何故この謡曲に? しかも日本最初の仏像であると? 思いも掛けぬ文字に出会って、心臓は早鐘を打ち、目はもう点になって、体がしばし硬直する程の驚きを今も忘れられません……。

 西暦700年、九州王朝滅亡後、種々の宝物が大和へ送られてきたことは承知しておりました。正倉院の御物も七支刀も、種々の仏像も果ては宮廷女性まで……。そして、無冠の王といわれる名も知らぬ王様達までが大和へ続々と拘引されたさまが『続日本紀』に見受けられるのです。無冠の王とは王の位を剥奪された九州王朝の王様達でありましょう……。

 しかし、救世観音までもが九州宮廷にも等しい博多四天王寺のご本尊であられたとは考えもしなかったのです。「救世観音は法隆寺」と相場の決まったものと認識していたのです。

 思えば驚く方がおかしいのです。釈迦三尊という、九州宮廷にとって最も大切と思われる仏像さえ、容赦なく大和へ送られていることを既に教わっていたのに、です。

 救世観音とは何処にもここにもある仏ではなく、この隠れキリシタンの如き名の仏は、恐らく日本にただ一体、大和法隆寺のいわく言いがたき因縁付の仏ではありませんか。この仏が仏教の先進国九州王朝において、我国最初にできた仏閣に、しかも最初の仏像として作られ祀られた仏様であったと謡曲は言うのです。謡曲は誰も一度も漏らしたことのない歴史を、『記紀』が一言も語らぬ歴史を、恬然として『弱法師』の一節の中に胸はって語っているのです。

救世観音1 救世観音2

 この仏像は上宮太子のお姿を象ったものであるといいます。博多の四天王寺に在ったはずのこの仏が、はるばる大和の法隆寺へ運ばれたのは碓かなことです。それは今も八角堂の夢殿に在(おわ)すのですから。

 しかし、この仏は明治17年、アメリカ人フェノロサの手により戒めを解かれるまでは未曾有の虐待に遇っていたと。五百ヤードにも及ぶ白布で息もできぬようにして全身縛り上げられた上、厨子に込められ鍵を掛けられ、夢殿のなかへ蛇とネズミと埃にまみれて、末代開けぬという寺の言い伝えで夢殿の外からも厳重な鍵がかかっていたといいます。僧侶の制止を振り切って、外国人が開けたのです。千二百年もの獄舎に押し込まれて在した仏さまということです。

 しかも長い長い白布の戒めを取り去った時、もうもうたる埃の中から出てきたお姿は後ろ半身はこわされて、頭も胸もところ構わず五寸釘が打ち込まれていたといいます。いえ、今現在もそのままの姿であの重そうな光背を頭骨に打ち込まれたまま少し前屈で立っておられる由。ああそれは余りにも重く、過酷の年月でありました。こんな残酷な話を……、私はもう書けません。

 これは昭和48年に出版された梅原猛氏の『隠された十字架』に拠るものです。氏の渾身の力作と存じます。その後この仏を修理したという話は聞きませんので、まだ仏像にも似合わぬ赤いカーテンの中から前身だけを見せておられることと思います。しかしこの仏が再び日の目を見られた時からもはや百年以上。何時までこのような無惨な上宮太子を、日本人は捨てておけるのでしょうか。知らぬが仏とは……。日本人は知らないのです。 なんにも。『記紀』を盲目的に信じて一歩も動けぬ学会と国民です。私もそうでした、古田武彦氏の学説を存じ上げるまでは。

 この方が……、あの十七条の憲法を日本において始めて作られ、法華経や勝鬢経の講読をされて初めて我国に仏法を広められたという、十人の言を一度に聞き分けられたともいう傑出の名君であったのです。利歌弥多仏利です。「利」という一字名の上宮太子でおわしたと思われるのです。私はこの太子が亡くなられた後、諡(いなみ)として聖徳太子と改めて筑紫では言われて来たのではないかと、どうしても思えるのです。九州年号に「聖徳」というのも見受けられます。謡曲ははっきりと「ジョウグウ太子」といっています。

 太子のご前生は宸旦国の思禅師であり、如意輪観音の応化(おうげ)とも言われていたと謡います。しかし、この曲ができたときは太子はまだ生きておられて、諡の「聖徳太子」とは謡曲は言ってはいません。九州には天子の宮殿跡と見るところには上宮、中宮、下宮と宮跡が在る由。宝満山にも阿蘇の山裾にも上宮、下宮が在るとききます。「斑鳩のかみつみや」等と舌噛むような変な言い方はしないのです。

 聖徳太子といえば誰がなんといおうと厩戸王子、国書がそういうようですから。しかし思っても見てください。推古天皇は女帝です。立派な跡継ぎがいれば、さっさと譲って楽もしたいが人情です。それが厩戸は42歳にもなりながら、とうとう死ぬまで天皇にもなれなかった人物です.私はこれを見るだけで甚だしく凡庸な男子ではないか、とても憲法十七条だの、仏法を初めて国に広めた等という人物とは……、人違いも甚だしいと思います。そうお思いになりませんか。

 それに『書紀』に29年2月5日「厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨(かむさ)りましぬ」とあり、決して「聖徳太子薨(こう)ず」とは記してはいないのです。厩戸と聖徳太子とを同一人物と思わせるように巧みに書きながら、最後の死亡記事には、ここぞとばかりきわどい逃げの一手を打っているのが解るのです。

 厩戸の一族は斑鳩に居住していました。そしてここで一族が滅んだことは確かでしょう。しかし権力の手で滅びたのはこの家だけでしょうか。古代史を少し繰れば五指には余るほどもあるのです。にも拘らずこの家一族の恨みばかりを何故過大に強調しなければならぬのか。私はこの斑鳩一族の滅亡を利用したのであると思うのです。隠れ蓑として、聖徳太子、聖徳太子と吹聴しながらその実、滑稽なまでに朝廷のやたらと何かを恐れおののくその的は最初から九州王朝へ向けられていたものではないのかと思うのです。その戦後処理の余りにも理不尽な大和朝廷のやり方、同朋への心なき仕打ちを、それら誰が聞いても呆れるばかりの人でなしのやり方を。さすが神仏への恐れからか、偉大であった九州の上宮太子イコール聖徳太子への恐れへと向かっていったものと思わざるを得ません。

 しかし、梅原氏渾身の力作も、九州王朝実在概念の導入が全くないために、恨みの相手が厩戸では、のれんに腕押し、手応えもなくて、これでは大和朝廷の一人芝居、朝廷の病的神経症としか思えなくて、折角の力作も本当に惜しいと思うことです。

 いまも不思議な微かな笑みを湛えて、何事もなかったかのようにすらりと立たれる救世観音。仏像には不似合いなカーテンの陰に後ろ半身を隠して、何時までこのようなお姿でと嘆くのは私だけではないはずです。日本人の90パーセントは仏教徒だと言います。この日本の国に最初の寺に、初めての仏としてお立ちになったこの観音菩薩。そのときこの国の人がどれ程喜び喝仰したことでしょうか。

 折角このどうしようもなく乱れた日本を救うてやろうと仰せであられるものを、千二百年前、厭魅(えんみ)され毀されたままのご身体で余りにも痛わしく勿体ないことと、皆様お思いになりませんか。ささやかな力でも、みなで合わせて見たらなんとかならぬものかと思うことです。

 古田史学によれば、上宮太子の父天皇は多利思北弧。「日出る処の天子、日没する処の天子に書を至す、恙なきや」と隋国へ書を送ったという、初めて日本において天子を名告った方であると言われています。華の如く豊かに輝いたこの国の爛熟期でありました。この謡曲『弱法師』の曲の中も、梅花薫る誠に華やいだ活気あふれる難波の都をこの世の春と謡い上げて、この寺と仏を讃仰しているのです。このとき太子を象ったというご本尊救世観音の、千年の虐待と流浪の未来を誰が想像できたことでしょうか。



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