2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(58)

地名奪還大作戦(6):難波=筑前博多(3)


 前回の論証に一つ付け加えたいことがある。「新・古代学の扉」の論文を拾い読みしていたら、多元的古代研究会の灰塚照明(福岡市在住)という方が「筑前に難波の小字が存在していた」ことを指摘されているという。「難波池」だけでは心細かったが、字名に「難波」があったとは心強い限りだ。

 さて、以上で「難波=筑前博多」の論証は十分かな、と思っているが、なお納得しがたいという方がおいでかもしれない。すごく興味深い話題が含まれているので、せっかくだから傍証の一つとして、新庄さんの論文『蘆刈』・『弱法師』を紹介しようと思う。まず『蘆刈』から。

謡曲『蘆刈』のあらすじ
 津の国日下の里の住人・佐衛門は貧困のため、心ならずも妻を離縁する。その妻は都の高貴な家の乳母となって安定した生活を得て、3年後に従者を伴って難波の浦へ下り、夫の行方を尋ねる。佐衛門は零落していて蘆売りの貧しい男になっていた。しかし間もなく夫であると解って打ち連れて都へ帰る。

 話の筋はこれだけだが、妻との再会の場面がこの謡曲の見せ場である。左衛門は面白く囃しながら芦を売り歩いているが、妻の一行とは知らずに問われるままに、仁徳天皇の宮があった御津の浜の由来を語り、笠尽しの舞をまって見せる。この場面に注目して、新庄さんはこの謡曲は「博多どんたく」の由来を物語っていると言う。この謡曲の舞台「津の国日下」は「大阪府東大阪市」であるという定説を従来疑った人は皆無のようだ。新庄さんはそれに異を唱えたわけだ。

 ちなみに、大阪の「日下」は「くさか」と読む。イワレヒコ(神武)が侵略を試みて、長髄彦に大敗したのが「日下の楯津」だった。原文は「河内国草香邑青雲白肩之津」(日本書紀)。

 しかし「日下」は「ひのもと」とも読む。《「真説・古代史」拾遺編》(25)から引用する。

「博多には『ヒノモト』という字(あざ)地名が多くある。室見川の中流、やや河口寄りに日本(ひのもと)橋があり、その東には日本(ひのもと)団地がある。調べてみると、博多湾岸に3ヵ所日本(ヒノモト)という字地名がある。福岡県全体では5ヵ所あった。」

 「津の国日下(ひのもと)」で、『蘆刈』の舞台は「筑前博多」という方が信憑性がある。

 さて、博多の祭り「どんたく」は正確には「博多どんたく港まつり」と言う。毎年5月の初めに行われる。200万人を越える人出で賑わい、博多は町を挙げて浮かれ出す。

 この祭は「松ばやし」と呼ばれ、江戸時代には民政の一つとして奨励されていた。それがなぜか、明治5年に県知事によって禁止される。それでも博多っ子は知恵を絞り、オランダ語の「zongtag(休日)」にかこつけて、一時禁止されていた「松ばやし」を復活させた。そのときから、この祭りを「博多どんたく」と呼ぶようになったという。

 この祭りのそもそもの由来を主催者のHPは次のように書いている。

『「博多どんたく」は、わが国の古い民俗行事で凡そ830年余の伝統行事である。平安時代、京都御所の正月、宮中参賀の行事が地方に伝わり、この博多では源平時代のち冶承3年(1179)、正月15日、松囃子を取行う...とある。』

 この祭りは室町時代からのものと言っているが、『蘆刈』がこの祭りの由来を物語っているとすれば、それは5世紀にまでさかのぼることになる。新庄さんの論証を読んでみよう。

 この祭りは型にとらわれることなく特定の神を祀るためでもなく、男女共梅花飾りの菅の花笠を被って、民衆が台所のしゃもじまで持ち出して叩いてうかれ踊ると聞きます。そうです。(『蘆刈』の「笠尽しの舞」は)この祭りに違いありません。そのただむしょうに嬉しがるところが、他の祭りと違う大昔の名残りだと私には見えるのです。

 祭りの謂(いわれ)はもう遠に博多の人の記憶からは消えて、春が来ると必ず踊って喜びたい、不思議な祭りでありましょう。この謂はどなたに伺ってももう解らなくて、ただ謡曲のみが知る人ぞ知ると語っているように私には思えるのです。

 津の国、難波の都を初めて創られたのは仁徳天皇であると、謡曲『蘆刈』はさらりと臆面もなくいうのです。何故、仁徳天皇が博多に? 一昔前は驚き、また謡曲作者を私は出鱈目と笑いました。しかしもう笑うどころではありません。この『蘆刈』の舞台は「津の国難波の都・博多」の話に違いないのです。摂津の国を難波と呼ばせるようになったのは、聖武天皇「難波の宮造営」(『続日本紀』)に始まるものでありましょう。仁徳の時代はもとよりのこと、聖武時代までは末だ大阪を難波とは言わず摂津と言ったはずです。

(中略)

 二人(佐衛門とその妻)の帰って行った都とは多分高良の都ではなかったかと思われます。

 この文の中で、この夫が蘆を売るために様々な昔からの歌をおもしろ可笑しく賑やかに囃して謡うのです。それは、仁徳天皇がこの難波の浦に初めて大宮造りされて、波涛海辺の大宮であるから、この浜を御津の浜といった、一漁村に点すかがり火までも禁裏の御火かと見紛うほどの海近くであった、網子の網引する「えいやえいや」という呼び声が、御殿の中まできこえて目の前に網船や漁の様が見えたと、そして、この浜には大伴の警護の一団も控えていたと謡うのです。

 名に負ふ梅の花笠、難波女の被(かづ)く袖笠、肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ

と囃して謡い、

 難波津に咲くや木の花冬籠り今を春べと咲くや木の花、と栄え給ひける仁徳天皇と。(木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と)

これは難波の皇子の御事と重ねて説明しています。また古くは安積山の采女の盃とりあえぬという仁徳時代の倭歌のはじめといわれる古歌までも並べて、津の国の難波の春は夢なれや、と結ぶのです。この曲は大変調子がよくて、謡っていても晴れやかで手拍子でも打ちたくなるような、謡曲には珍しい浮き浮きしてくる謡です。

 つまり、この謡の原作者は貧しい蘆売りの口を借りて、博多における仁徳天皇時代の善政や華やかに栄えた難波の古い都を語りたかった、二人の男女の情けを演じるその「舞台」を、その土台の大地をこそ詳らかにしたい、これがこの作者の意図ではないかと思ったのです。

 しかし、読みの足りぬことに今頃気が付きました。それはひとたび雨風が来た時、この土地の産物、蘆の古簾はざらざらざっとひとたまりもなく飛ばされてしまって今は跡形もないことに、この作者の深い悲しみと諦めが沈んでいたのです。それは浮き浮きした曲の陰に隠されていました。謡曲は殆どが仏教的追善ものか、人間の深い業を語るもののようです。この曲もやはり、明るいばかりではなかったのです。

 仁徳天皇は高殿に登り民の竃(かまど)の煙の上がらぬのを憂えて、三年の課役を止めて民の潤うのを待ったという、その善政を国書に特筆される天皇です。しかも謡曲はこれが博多の天皇だというのです。国書とどちらが本当でしょうか。

 関西摂津の高津(今の新幹線大阪駅の辺り)が仁徳天皇の宮跡だと聞きます。しかし何の遺跡も残ってないのではないでしょうか。子供の時から遠足に行ったことも噂に聞いたこともないのです。これだけ民のために尽したという天皇をです。

 大阪の南、堺の街からそう遠からぬ所に、あの有名な巨大仁徳古墳が父天皇の応神古墳と共にデンとして静まってあるのです。しかしあの古墳の前で、昔の善政を称えて大阪人が大挙して押しかけ踊り狂い喜んだという話など、全く聞いたこともありません。

 私は思います。これは人攫(さら)いです。仁徳天皇は攫って行かれたのです。事蹟もろとも、国書に攫われたのです。博多の宮殿から三百年も経って居心地の悪い関西へ、国書『日本書紀』成立と共に連れ去られたと理解するよりほかありません。国民の全く与(あずか)り知らぬことです。だからこそ謡曲作者は、ざらざらざっと風雨が巻き上げたと言っているのです。

 そうして地元の「津の国難波」では仁徳天皇亡き後も毎年称えてお祭りして来たのでしょうが、天皇の歴史が関西へ行ってしまった後はお祭りの喜びの意味も分からなくなって、それでも春が来ると毎年浮き浮きと謡曲の中の佐衛門のように昔の歌を謡い踊り、長く先祖の踏襲してきたしきたりを続けて、何となく安心しているのではないかと考えます。司直の手により止めよと命令されても、オランダ語に変えてでもこの祭りを続けたいとは、私は博多人の因縁ともいえる不思議なエネルギーを感じないではいられないのです。

 今ふうに言えば遺伝子のなせる業とでも申しましょうか。今も謡曲の言うように梅の花笠を被っておもしろ可笑しく、踊りながら喜びを表すのでありましょうか。ちなみに、梅花は謡曲『老松』にいうように九州王朝の象徴であり紋どころなのです。



 新庄さんは「二人(佐衛門とその妻)の帰って行った都とは多分高良の都ではなかったかと思われます。」と書いているが、この仮説についてはこれ以上は何も述べていない。これについて補足しておきたい。

 「古田史学会」の事務局長・古賀達也さんが「良大社の祭神・玉垂命は九州王朝の王」という命題を追っておられる。その中の一論文 「高良玉垂命と七支刀」 から引用する。

 『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。



 『日本書紀』の中に拉致された筑前博多の王とは、言わずと知れた「倭の五王」の一人「讃」にほかならない。ちなみに、「定説」は『仁徳の名「大鶴鶉(おおささぎ)」の第三・四音に当る「さ」または「ささ」を切りとって、中国側が「讃」と表記した。』という学問の名に全く値しないこじつけで「讃=仁徳天皇」と断定している。( 『「倭の五王」とはだれか』 を参照してください)

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1278-c5f0b267
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック