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《「真説・古代史」拾遺編》(57)

地名奪還大作戦(5):難波=筑前博多(2)


《「真説・古代史」拾遺編》(52)に登場した黒姫に再登場してもらおう。黒姫が磐の姫の嫉妬を恐れて吉備に逃げ帰るという説話に、仁徳と黒姫が詠ったとされる歌が5首ある。そのうちの1首は次のようである。(岩波『古事記』利用)

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島(あわしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放つ島見ゆ

 磐の姫に追われて黒姫が「本つ国(吉備)」へと船出するのを仁徳は別れを惜しんで見送る。それにも嫉妬した磐の姫は黒姫を船から下ろして、徒歩で帰らせる。仁徳は「淡道島を見たい」と磐の姫に嘘をついて「淡道島」に出かける。そこから黒姫に会いに吉備へと行く。上の歌は仁徳が「淡道島」で詠ったと設定になっている。

 歌では仁徳は難波の崎にたって、そこから海の方を遠望している。 難波の崎から出で立って(海上から)の意。 「出で立ちて難波の崎より」とする説もある。「淡道島」で詠ったという設定と矛盾するが、一般に説話の中の歌の多くは、別に流布されていた歌をその説話に流用したと考えられる。『万葉集』の場合と同様に、説話の内容と歌の内容が矛盾しても、歌の方はそのまま改変することなく扱わなくてはいけない。

 さて歌には、自凝島・淡島・檳榔の島・放つ島と、四つの島名が歌いこまれているように読める。「岩波」は当然のことながら「難波=摂津(大阪)」としているから、この歌にはいろいろと困っているようだ。「岩波」の頭注は次のようになっている。

1 押し照るや
 難波の枕詞
2 難波の崎よ 出で立ちて
 難波の崎から出で立って(海上から)の意。「出で立ちて難波の崎より」とする説もある。何れにしても淡道島で歌われた歌というのと矛盾する。
3 淡島 自凝島
 淡島やオノゴロ島や。
4 檳榔の 島
 檳榔(蒲葵)の生えている島。
5  八 放つ島
 離れ島の意に解してみた。武田博士は、さ食つ島、即ち食物の島の意で、淡路島のことだろうとしておられる(記紀歌謡集全講)。この歌には黒日売を恋う趣は見えない。それはこの歌はもともと国見の歌だからである。しかし物語歌としては、離れ島も見える、しかし黒日売の姿はどこにも見えない、の意を添えて解すべきであろう。

 この注によると、歌の意は次のようになる。

難波の崎から出で立ち、海上からわが国を見ると、淡島や自凝島など、ビロウの生えている島も見える。離れ島が見える。

 つまり詠われている島は2島。その2島はビロウの生えている島で、離れ島である、と言っている。離れ島とは「陸から遠く離れている島。孤島。」(広辞苑)である。2島だから「孤島」は合わない。この2島は「陸から遠く離れている島」となる。難波の海から見える島と言ったらまずは淡路島。はっきりと書いていないが、「岩波」は「淡島」を淡路島に比定している。武田博士は、「放つ島」を淡路島に比定している。この場合は「淡島」は淡路島とは考えていないことになる。つまり全部で3島とみている。武田博士が「淡島」を、さらに言えば「自凝島」をどこに比定しているのか、「記紀歌謡集全講」が手元にないので、知ることができないが、「自凝島」については、「岩波」が触れようとしないところから、たぶん武田博士もお手上げなのではないか。

 ここでふと思いついたことがある。岩波の日本古典文学大系には『古代歌謡集』がある。これは歌謡に的を絞っているので、より詳しい注があるのではないか。ありました。古事記の歌謡担当は土橋寛博士。その頭注は次の通りである。

○おしてるや
 「難波」の枕詞。日がおし照る意のほめ詞。
○淡島
 記紀の諾冊二神の国生みの条に、出来そこないの小さな島として淡島のことが見え、万葉集には粟島と書いて風光の美しい所とされている。所在は確かではないが、淡路島の東北端、今の岩屋町(浮名郡)の東にある絵島の辺か。あるいは阿波の国か。
○淤能碁呂島
 これも前記の国生みの所に見える。二神が海中に下した矛の先から滴りおちる海水が自ら凝り固まって出来た島と伝える。絵島の近くの島か。
○檳榔の島
 アジマサの木が生えているのでそう呼ばれた島の名。アジマサは檳榔の字をあて(記垂仁・本草和名)、平安朝以後は檳榔毛の車、檳榔扇など音読するが、その実物は檳榔に似た蒲葵(ほき)で、日向・薩摩・土佐に自生する。淡路島附近の小島にも蒲葵葉を産する所があるという(言別)。
○佐気都島
 名義・所在ともに不明。
◎この歌の歌詞には、黒日売を思う意味はなく、淡路島で歌った趣もない。難波の崎から海上を見遙かした国見の歌であろう。

 島は4島との解釈をしている。しかし、「難波=摂津」だから、どの島もどこと確定できない。やはりどの学者もお手上げなのだ。

 さて、「自凝島(淤能碁呂島)=能古島」を知っている私(たち)にはこの歌の舞台が博多湾であることは自明だ。博多湾には志賀島・能古島があり、少し沖に玄海島がある。下の地図では見えないが、玄海島のまわりには大机島(さらに小さな島を伴う)・柱島という小さな島が点在している。博多湾はこの歌の舞台としてぴったりではないか。

博多湾地図

 富永さんの論文から一節を引いて、「難波=筑前博多」の論証を補強しよう。


 すなわち黒日売歌謡の「なにはの崎」も、淤能碁呂島の論理から博多湾にあったことになろう。淤能碁呂島が、なにはの崎から見えているのだから。またこの歌は多島海の景観を歌っているのでは、と先程述べた。大阪では相応しくなかったが、博多湾の光景としてはよろしいのではないか。かつての博多湾がより深く陸に湾入していたことは、万葉歌の故地が、埋立てによって著しく変っていることでも知られている(『九州の万葉』桜風社、等々)。また最近九州の灰塚照明氏は、住吉神社絵馬による博多古図なるものを紹介しておられる。それによっても古代の博多湾の状況が窺われる(なお青山富士夫氏より、檳榔の島が植物のアジマサによるのであるならば、アジマサとはビロウ〈ビンロウではない〉であるらしく、その分布は、福岡県沖の島、四国の足摺岬以南にあることを教えて戴いた)。

 黒日売歌謡における「やまと」「なには」はいずれもが近畿ではなく筑紫であった。ならばこの物語りの主人公は仁徳ではない。筑紫の大王伝承だ。それが仁徳記に盗用されていたのだ。



 富永さんは黒姫説話中の
倭方(やまとへ)に 西風吹き上げて 雲離れ退(ひ)き居りとも 我忘れめや
という歌を分析して、ここの「倭(やまと)」が、やはり筑紫であることを論証しているが、割愛した。

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