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《「真説・古代史」拾遺編》(54)

地名奪還大作戦(3):紀の国=佐賀県北部?(2)


 巻六917番・山部赤人の歌が紀伊国(和歌山県)の雑賀崎で詠まれた歌ではないことがはっきりした。ではどこで詠まれた歌なのだろうか。新庄説を読んでみよう。巻六917番を提示して言う。

 右の歌は珍しく判然と、地名の解る万葉歌です。

一 雑賀野は、天皇の宮殿があった所である。
一 それは海岸であって、背後に沖の島がみえたと言う。
一 それは玉津島山のある地である。

 玉津島とは唐津湾松浦、玉津島明神の祀られる地であるということです。以上のことだけでも雑賀野は佐賀県北海岸であることが解るのです



 新庄さんはいとも簡単に「玉津島とは唐津湾松浦、玉津島明神の祀られる地」と断定しているが、その断定の根拠が示されていない。それが不満なので、唐津湾松浦に玉津島地名あるいは玉津島明神を祀る神社の痕跡があるかどうかいろいろ調べたが、ない。(玉島神社というのがあったが、これは島ではない。)雑賀野の手がかりがあればはなしは簡単なのだが、こちらもない。

 しかし、雑賀野には大王の「常宮」があったという。魏志倭人伝に出てくる「末盧国」は今の東松浦郡に比定されている。7世紀末の頃ここに九州王朝に帰属する大王があり、その大王の「常宮」があっても不思議はない。雑賀野という地名には何の手がかりもないが、雑賀野は東松浦郡のどこかではないか。

唐津湾
唐津湾 点在する島の向こうに見える半島が東松浦半島

 謡曲『淡路』を改めて読んでみた。冒頭のワキの台詞
「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。偖もわれ宿願の子細あるにより。住吉玉津島に参詣仕りて候。又よきついでなれば。これより淡路の国に渡り。神代の古跡をも一見せばやと存じ候。」

 玉津島は「住吉玉津島」とあった。「玉津島」は固有名詞ではなく「玉のように美しい島」という意味の普通名詞ではないだろうか。もしそうならば、「住吉玉津島」は「住吉明神が祀られている美しい島」となる。

 住吉神社は全国に約2000社あるそうだ。その中で一番古いとされているのは筑前一の宮住吉神社である。しかし今は、新庄説に沿って、肥前唐津湾松浦あたりの島を探ってみよう。候補が二つあった。壱岐島と神集島(かしわじま)。

 壱岐島は唐津湾東松浦から20キロくらい沖にあり、魏志倭人伝に出でくる「一大国」に比定されている古い歴史を秘めている島だ。さすがに壱岐島には50社ほども神社がある。その中の一つに過ぎない「住吉神社」をとって「住吉玉津島」という表現は果たして適切かどうか。ただし、神社の由緒書きは「日本最初の住吉神社総本宮なり。次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に、日本4住吉の1つにして、古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり。」と、その権威を披瀝している。

壱岐島
壱岐島

 神集島は唐津市西部の湊港から約1kmの沖合いにあり、周囲約8kmの小さな島である。「沖つ島」というにはちょっと近すぎるか。島には神社は7社ある。ここの住吉神社も「日本初の住吉神社」と自称しているようだ。また、延喜式神名帳では名神大社とされているという。ここを「住吉玉津島」と呼んでもよさそうだが、どうだろうか。

神集島
神集島

 『淡路』の冒頭の台詞に、住吉玉津島から能古島(淡路の国)に渡る、とあった。壱岐島から能古島に渡るのには壱岐水道を横断し、さらに玄界灘を越えなければならない。直線距離で40キロぐらいあるだろうか。「よきついでなれば」ちょっと寄っていこうというには距離が離れすぎている。神集島からならば、「よきついでなれば」という表現が適切になると思える。

 一つの仮説に過ぎないが、以上から、取りあえず玉津島=神集島として、新庄説の続きを見てみよう。

巻七 1194番

紀の国の雑賀(さひか)の浦に出で見れば海人(あま)の澄火(ともしび)波の間ゆ見ゆ

 「そして次の歌でそれが決定的になります。」と言って、上の歌を引いている。

 これはもう判然としています。かつて天皇の宮殿のあった雑賀野という地が、紀の国にあったということです。山部赤人は紀の国へ天皇のお供をして雑賀野の宮殿へ行ったと歌っている。赤人は倭国に仕えた歌人と見ていますので、723年では辻妻の合わぬ感があり、添え書きをわざと変えたものかと思っています。

 とまれ雑賀野の宮殿は背向に沖の島が見えたといいます。これは九州北海岸ならではのことです。和歌山の背後に沖の島とは、どんなにしても無理です。これによって紀の国=和歌山はありえないということになります。



 ここでは、これまでの「紀の国=唐津湾東松浦」の論証が正しいことを前提している。その立場からは、巻七1194番歌により「雑賀野」は「紀の国=唐津湾東松浦」にあったという結論は必然である。逆に、万葉集の編者はこの歌の「紀の国=和歌山」との認識から、巻六917番歌にくだんの詞書を付したのだろう。

 なお、赤人の歌で詞書によって作歌年月が特定されている歌がもう一つある。1005番・1006番歌で、735(天平8)年6月吉野行幸のときとなっている。赤人が「倭国(九州王朝)に仕えた歌人」だとすれば、この詞書も眉唾ものと考えてよいだろう。

 この他にもまだありました。『万葉集』1796~1799まで「紀伊国にて作れる歌四 首」とあります。中でも、

古(いにしへ)に妹とわが見しぬばたまの黒牛潟(がた)を見ればさぶしも(1798番)

と歌いますが、黒牛潟は佐賀県有明海に出る河口。今、牛津川と言われるものがそれであろうと思うのです。また、

玉津島磯の浦廻(み)の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹がふれけむ(1799番)

 があり、これも玉津島が歌われることで、佐賀県北海岸のことであろうと推測できうるものです。今までこの道の権威の方々が、何故これを和歌山だと肯定してこられたのか、私には不思議です。紀皇女、紀郎女、紀貫之、紀有常など時代は下りますが、紀姓はいずれも佐賀県出身ではなかろうかと思っています。



 1798番歌で「黒牛潟は佐賀県有明海に出る河口。今、牛津川」と推定している。「黒牛」という地名はいまどこにも残っていない。そこで「黒牛」と「牛」一字が共通する地名を選んだということだろう。同じ論法で、「岩波」では和歌山に「黒」一字共通の地名を探し出して、「和歌山県海南市黒江・舟尾(ふのお)あたりの海」と解説している。どちらも決め手にはならない。

 しかし、1799番の「玉津島」には「磯の浦」がある。玉津島は「島」であることをこの歌も主張している。つまりこの歌の「玉津島」も和歌山県の玉津島神社ではないことを示している。

 一つ補足すると、多次元史観の立場から柿本人麻呂のたくさんの歌が鑑賞(検討)し直されているが、いずれも人麻呂は倭国(九州王朝)の貴族であるという方向を指している。そして、上記の歌には「柿本朝臣人麻呂の歌集にいでたり。」という「左注」が付いている。「柿本朝臣人麻呂歌集」には人麻呂自身の歌のほかに、人麻呂が作歌の研究や参考のために採集したものも含まれているという。(古田さんによる論証がある。)そのいずれにしても、特に1799番歌は倭国で歌われた歌と考えてよいだろう。

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