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《「真説・古代史」拾遺編》(53)

地名奪還大作戦(2):紀の国=佐賀県北部?(1)


 史料としての『万葉集』についてひとこと確認しておきたい。

 一般に詩歌は作者がその時の自らの思考や感情を言葉として定着させたものだから、同時代史料として扱える。つまり金石文と同様、第一史料である。(蛇足ながら、とうぜん過去のことや未来のことを空想して作られたものもある。今はそれらを除外して考えていることを、わざわざ付け加えるまでもないだろう。)

 特に『万葉集』の場合、7世紀の後半から8世紀にかけて起こった九州王朝から近畿王朝への権力交代という大事件の前後にわたる時期の作品群で構成されている。その時期の貴重な直接史料である。しかし、詞書や注は編者が後から付加したものだから、その扱いには注意を要する。その付加には近畿王朝の大義名分の立場からのものがある。従って、歌本体とその詞書や注とが矛盾するときは歌の方を「正」としなければならない。

 もう一つ、今回のテーマに入る前に前回の記事の補足をしておきたい。大八洲の「二 伊勢・志摩 筑紫の糸島」という比定について、新庄さんは「この所は古代、水道で怡都(いと)と志摩に別れていた由。伊勢は神風の伊勢(神が瀬の伊勢)として怡都の国にあったという(古田史学)。」と記していた。これだけでは納得しがたい方は、古田さんによる論証を紹介した次の記事を参照してください。

『「神武東侵」:生き返る挿入歌謡(1)』

『「神武東侵」:生き返る挿入歌謡(2)』

 さて、今回のテーマは「紀の国=佐賀県北部」という比定の論証だ。新庄さんはまず次のような仮説を立てる。

 紀の国とは、私達の認識では和歌山県のことになっています。しかし、『万葉集』等の古典を見る限りどうもおかしい。合わないのです。何故なら現代と違い交通の便も悪く、国王も違う他国へそう簡単に行き来のできるはずがないのです。それにも拘らず『万葉集』では、筑紫から紀国へ絶えず行き来している様が伺えます。「紀の国とは、筑紫国と同一天皇を戴いている国ではないか」。一つの国の範疇になければおかしいと思うようになったのです。しかもそれは地続きではなかろうかと。では何処かと言えば、それは佐賀県を指摘せざるを得ません。

 紀とは、掾、雉怡(ちい)、基肄(きい)、紀伊等と書かれています。佐賀県を仮定して見たとき、今の地図によっても、三養基(みやき)郡、基山町、彼杵(そのぎ)、杵島(きしま)、高来、雉怡の郷、紀郡と佐賀県は何と「き」の字の多い土地柄でありましょうか。古代の紀とは佐賀県のことではないかと思い至ったのです。

(振り仮名は私が付けたのですが、「掾」は何と読むのか、どこにあるのか、確認できませんでした。「紀郡」も確認できませんでした。)

 この仮説を論証する手がかりは、やはり万葉集であったと、新庄さんは次の歌を取り上げている。(新庄さんの論証は飛躍が多く、論理的に納得しがたい点が多々ある。表題に「紀の国=佐賀県北部?」とクエスチョンマークをつけたゆえんです。そこで、私なりの補充をしながら進めていく。)

巻六 917番、918番、919番

神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸しし時に、山部宿禰赤人の作る歌一首 短歌を併せたり

やすみしし わご大王(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干(ふ)れば 玉藻刈りつつ 神代より 然(しか)そ尊(たふと)き 玉津島山

反歌二首

沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干(しほひ)満ちて隠(かく)ろひゆかば思ほえむかも

若の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦邊(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る

右のものは、年月を記さず。但し玉津島に従駕(おほみとも)すといへり。これに因りて今行幸の年月を検注して以ちて載す。


 「左注」によると、いつ作られた歌なのか分からないが、「玉津島」とあるから、神亀元年の聖武天皇の紀伊国行幸に「従駕」して作ったのだろうと推測して、詞書を付けている。『続日本紀』からその行幸を書き抜くと次のようである。

724(神亀元)年10月
5日 天皇は紀伊国に行幸した。
7日 紀伊国那賀郡玉垣の勾頓宮(まがりのかりのみや)に到着した。
8日 海部郡玉津嶋の頓宮に至り、10日余り滞在した。
12日 離宮を岡の東に造った。・・・


 一行はその地に21日まで滞在している。なお、16日の詔の中に次のような文言がある。

「登山望海。此間最好。不労遠行。足以遊覧。故改弱浜名。為明光浦。・・・」
 山に登り海を望むにはこのあたりは最も好い。遠出の労もなく遊覧ができる。よって弱浜(わかのはま)という名を改めて、明光浦(あかのはま)とし、・・・」


 地図を見ると、雑賀崎という岬と、和歌浦の側に玉津島神社がある。玉津島神社は雑賀崎と陸続きで、そこから約5キロほど真東にある。和歌浦(和歌川の河口)ごく近くである。たしかに雑賀崎・玉津島神社・和歌浦と、「雑賀」「玉津島山」「若の浦」と比定できそうな地名・神社名がある。しかし、長歌の内容とは合わない。列挙してみる。

1
 現在「雑賀崎」はあるが「雑賀野」という地名はない。
2
 歌では「常宮」は雑賀野の海の近くにある。しかし聖武が滞在したのは玉津島である。しかもそこは「頓宮(かりみや)」である。
3
 歌によれば、雑賀野からは「沖つ島」が見える。雑賀崎のすぐそばに大小四つの島があるが、あまり近すぎてとても「沖つ島」とは言えない。地図には島の名も書かれていないし、「神代より然そ尊)き」ような神社もありそうもない。(「沖つ島」は固有名詞ではなく、普通名詞「沖の方にある島」だろう。歌は「沖つ島」=「玉津島」として詠っている。)

(写真をクリックすると大きくなります。)

手前の長堤の付け根あたりが玉津島神社。その長堤の向こう側が和歌浦。左上に島が見える。その島とほとんどつながって見える岬が雑賀崎。(写真は「和歌山情報サイト・和歌山であそぼ」さんから拝借しました。無断借用ごめんなさい。)

4
 雑賀崎から海の方を見るというのは、西の方を見ることである。しかし玉津島神社は雑賀崎の東の方約5キロの岡の上にある。また、そこは玉津島と言うほど高い場所なのだろうか。

 これらの矛盾を定説ではどう説明しているだろうか。「岩波」を見てみよう。

1
 雑賀野については「和歌山市雑賀崎近近の野」と説明しているだけ。地図で見ると、雑賀崎近辺に「野」と呼んでいいほどの平地(広がり)は考えがたい。
2
 私は「常宮」とは「行宮(かりみや)」に対して「つねにいます宮」と解しているが、「岩波」は「永久の御殿」と訳している。単なる「頓宮」を「永久の御殿」と装飾していると言っているのだが、私にはとてもおかしな解釈に思える。
3・4
 玉津島山について「岩波」の頭注は「玉津島。海中に山のように見えるので山といった。現在は陸上にあり、奠供山(てんくやま)と呼ばれ、和歌山市和歌浦の玉津島神社のうしろにある。」と言う。

 さらに、ネットで玉津神社を調べたら
「和歌浦にある船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの山は、もと小島で、当時それらはみな、玉津島山と呼ばれていた。今は、その一つ、妹背山だけが、もとどおり島のまま残っている。」
と言う説明に出会った。そのほか
「当時は、島山があたかも玉のように海中に点在していたと思われる」
とか
「いにしえ島山が恰も玉のように海中に点在していたと推察され、」
とか、いずれにしても、昔は島だったというわけだ。そう断言できる地質学的証拠でもあるのだろうか。みな憶測に過ぎないようだ。

 さらに、もしその憶測が当たっていたとしたら、ますますおかしいことになる。聖武の行幸記録に船に乗って島に渡ったという記事はない。そのとき聖武はモーゼになったのかしら。また、玉津島神社の周りが海だとしたら、聖武が風光明媚をめでた和歌浦はないことになる。

 従来はこうした矛盾にはしっかりと目をつぶってきていたわけだ。あるいは矛盾に気がつかなかったのかもしれない。しかし単なる「万葉愛好家」ならいざ知らず、「万葉学者」を名のる専門の研究家が「矛盾に気がつきませんでした」では、あまりにも情けない。

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