FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(51)

「九州王朝」抹消大作戦


 今回から、新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』から、私が強く興味を引かれた問題を紹介しようと思う。話題は多彩にわたるが、著書内の順序にこだわらず、興味のおもむくままに書き進めていく。

 700年までは、倭国(ちくしのくに 九州王朝)が日本列島(九州から関東あたりまで)における宗主国であり、対外的にも倭国が日本の代表者だった。倭国支配下の一従属国に過ぎなかったヤマト王権が、倭国を占領していた唐の助力を得て、倭国から権力を簒奪し、大和王朝として名実ともに列島の支配者となったのは701年からである。

 しかし、それは単に権力が移行したというだけではなく、新権力が盤石のものとなるまでの数十年の混乱期間に、九州王朝を完全に抹消するという一大騒動が展開されたはずである。そして大和王朝はそれに成功した。その秘密事項は一切、どの国書にもそれとしてはっきりと書かれていない。しかし、1300年を経てようやく、古田さんの研究を嚆矢として、抹消された古代史の真の姿が立ち現れ始めたのだった。

(以下、新庄さんの文章を引用し、それに注釈を着ける形式で進める。)

 それまでの大和王朝は単なる一つの王国に過ぎず、九州王朝に隷属していた小国という身分から、一躍700年以後は日本を代表する国になったということです。この時、大和朝廷は勝者の立場から、九州に対してこればかりは理解致し難い行動に出ました。それは、莫大な賠償を求めたことです。同じ日本人が戦わずして。何の権利があったのでしょうか。外国との長い戦いに疲れはてて敗戦した同胞に対して、深手負う者の足切るが如き仕打ちは、よほど積年の恨みでもない限りは人間のすることではありません。日本人のすることではありません。

 九州倭国は文化的にも総てにおいて大和国より優れていたのです。種々の技術者達が賠償金代わりとして連行されたことは、今も正倉院文書に残る由。今、奈良東大寺にある正倉院御物と称されるものは、元九州筑後川沿いにあった正倉院の御物をそっくり取り上げて持ち去った物といいます。名前までもそのままとは……。これは賠償の一例です。

 宝物のみならず、大和王朝は、王と名づく人々をはじめ人間までをも捕虜として大量に連行したのです。国書『続日本紀』を見れば解るように、いったい何処から出てきたか不明の「無位の王」という名も知らぬ人々が、続々と何の紹介もなく出てくる不思議。継体天皇から僅か170年間にこれだけの親戚ができるはずもない大和王朝の不思議。



 「継体天皇から・・・」のくだりについて注釈する。新庄さんは倭国初期の歴史変遷を、元々の倭国の支配者である饒速日命(にぎはやしのみこと)系の王家と、倭国への侵略を繰り返す邇邇岐命(ににぎのみこと)系の王家との抗争史として描いている。継体は邇邇岐系の侵略者であり、それまでの大和の支配者は饒速日系の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が、「倭国大乱」のときに筑紫から大和の地に遷都して建てた国だと言う。つまり、近畿天皇家の祖としてのヤマト王権は継体に始まるとしている。(この問題はいずれ取り上げる予定です。)

 連行されたのは技術者ばかりではなく、あの額田王や鏡王という才色兼備の王女も、倭国から大和国へ献上させた戦利品だという。702年(文武天皇 大宝2年)4月19日に次の記事がある。

「令筑紫七国及越後国簡点采女・兵衛貢之。」
筑紫七国と越後国に命じて、采女(うねめ)・兵衛(とねり)を貢進させた。

 この驚くべき新庄説もいずれ詳しく紹介する予定です。

 「無位の王」とは位を剥奪された人ということではないか。大和にこの様な人の居るはずはないのです。それが、当時毎年の如く起こる天災……地震、洪水、干魃、疫病……と次々襲われた朝廷は、それが余程応えたとみえ、天罰か神の怒りと思ってか、天災がある度にこの無位の王達に四位、五位と官位を授けているのです。位を貰うということは、衣食をやっと保障されたということではないのでしょうか。天災の度に、捕虜の待遇を改善している様が伺えるのです。



 ちょっと調べてみた。ざっと調べただけなので、もしかすると見落としがあるかもしれないが、初めて「無位の王」への叙位が行われたのは704年(元明天皇・慶雲元年)正月7日である。

「無位長屋王授正四位上。無位大市王。手嶋王。気多王。夜須王。倭王。宇大王。成会王、並授従四位下」

 この後、ほとんど毎年「無位の王」への叙位が行われている。「無位の王」の数はたいへんなものだ。

 なお「無位の」という形容句の初出は701年(文武天皇 大宝元年)正月23日の記事で「無位山於億良為少録」とある。あの山上憶良を少録(記録係)に任命したというのだ。定説は億良を「下級貴族出身」としている。「無位」からの推定であろう。しかし新庄説によれば逆に、「無位」から億良はもともとは倭国の上級貴族だったと推定できる。どちらが妥当か。億良についてもいずれ取り上げよう。
 人々を遠慮なく連行して一体何をさせていたかは一切不明ですが、今度は人間だけではなく、九州王朝の総てを剥奪したい欲望に駆られたのでありましょうか。山も、川も、名所も。神代から続いてきた長い長い歴史もです。


 周知のように、九州と関西にはたくさんの「同地名」が併存する。なぜか。新庄さんは713年(元明天皇 和銅6年)5月2日の勅命に着目する。

「畿内七道諸国郡郷名、着好字。」
畿内と七道諸国の郡郷の名を、好(よ)い字を選んで着けよ。」

 一見何気ない見過ごされるような令に見えます。今までかつてこの令が問題にされた書物を見たこともありません。

 しかし私の目から見るとこれはただごとではない。政権交代後大和政府は如何ばかり、テンヤワンヤであったことか。矢継ぎ早に発令される政令。評が郡に代わり、通貨が代わり、国民も右往左往の最中に何ゆえ郡、郷の名までも全国的にこの混乱の最中に変える必要があったのでしょうか。もしこの政令なくば、と見たとき気が付いたのです。

682年 この年から『記紀』編纂に着手
712年 太安万侶が『古事記』を選上
713年 『風土記』を編纂
720年 『日本書紀』完成

 右のような書物が次々とできあがる年であった。これらの書物の舞台が九州王朝に関係ありと露見すれば「大和建国を称える」歴史書とは成りかねる。その上、『万葉集』もその地名根拠が九州にあると解かれば王朝の尊厳を失う。右の様な懸念一杯の中で、完全抹殺の令を出さざるを得なくなった、ということでありましょうか。思えば、この令の的は九州にあったのだと見ます。福岡県、佐賀県全土の土地名を剥奪せんがための魂胆、そのための令ではなかったでしょうか。

 大和朝廷は歴史が欲しかったのです。総ての九州の歴史は全部、余すなく大和発としなければならぬ。この命題を掲げた時、この713年の令ほど有効なものはないのです。なんという凄い智恵でしょうか。ただ感嘆のほか言葉もありません。

 九州倭国は、大和の思惑の通りに見事に消し去られたのです。戦い破れて山河あり、と言います。しかし山河すらも名はなくて、持ち去られたまま今に至るのです。勝者の立場でこれ程徹底した戦後処理のあり方は、敗者への抹殺のやり方は、恐らく世界にも例を見ないのではないでしょうか。

 『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、『風土記』。これ等に出てくる地名は全部余すなく関西にあります。摂津、大和、河内、泉、琵琶湖に散りばめるように定着しています。しかしそれが右に掲げた本の中身と殆ど合うことがない。『万葉集』は特にひどい。大和の真ん中にカモメが乱舞するワ、漁り火が見えるワ、海士の小舟が行き交うワ。これが大和の真ん中から見えるのだそうです。

 こうして千年以上も経た今、北九州を尋ねてみても歴史の故郷は、これと思えと比定することも叶わず、大和にも何の愛着も感じられず、後世の人の何と悲しいことでしょうか。私は歴史を繙きながら、そのように嘆息するのです。



スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1271-01d5cce7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック