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《「真説・古代史」拾遺編》(50)

壬申の乱(22):謡曲のなかの「壬申の乱」(2)


 『謡曲のなかの九州王朝』には取り上げたい話題がたくさんある。追々紹介していきたいと思っているが、取りあえずいまテーマにしている「壬申の乱」の部分を紹介しよう。

 謡曲『国栖(くず)』は、「壬申の乱」の前夜、大海人皇子(天武天皇)が吉野へ逃れたときの道中で起こった事件を題材に作られたものだという。国栖という土地を舞台としている。あらすじは次にようである。

 大海人皇子は大友皇子に追われて吉野の山中に逃げ、国栖の首領である老夫婦(漁師)の家にかくまわれる。その老夫婦は、皇子が二三日の間なにも食べてないと聞き、翁が国栖川で釣った取りたての鮎を焼き、姥は根芹を洗って供御に供えた。皇子が食べ余した鮎を翁に下される。その半身の鮎を吉野川に放すと鮎は溌剌と泳ぎだす。それを見て、皇子が無事帰還できる吉兆と喜ぶ。そこへ追っ手がやってくるが、老夫婦は川船を覆して、その中に皇子を隠した。追っ手が不審がるが、老夫婦は追っ手を言いくるめて追い返す。皇子は老夫婦の機転に助けられ深く感謝した。夜が更けて老夫婦の姿が消えると、天女が天より降って五節の舞を舞い、蔵王権現も姿を現して、大海人皇子の未来の佳きことを祝う。

 奈良県吉野町に大字国栖がある。しかし新庄さんは、大海人皇子が入った吉野は「肥前の吉野」という古田説に則って、九州の「くず」探しをする。そして、この謡曲の真の舞台が大分県の「玖珠」であることをつきとめる。

 最初にこの話を書いた作者はともかく、これを謡曲に仕立てた後世の作者の目には当然、この舞台とされる吉野という地は大和の吉野山。翼ある虎と恐れられた人物、天武天皇の逃げ先も当然この吉野山を想定したお話です。そして壬申の乱の舞台も真に小範囲のものであり、大和と美濃、山崎に終わった如くにこれまでの歴史は理解されてきたことです。しかしあの吉野山の頂上へ登る道は間道を入れても知れたもの。各々封鎖すれば瞬く間に袋のネズミであり、翼の虎の形容は余りにも不自然なのです。

 古田武彦先生も以前から大和の吉野は他にもいろいろと歴史的に当てはまらぬことありとお考えのようでありまして、先般ついに、この吉野は大和の吉野山にあらず佐賀県の「吉野が里」がそれに匹敵する吉野であると発表されました。私も大和ではおかしいとは思っていましたが、吉野が里とは本当に思いも掛けぬ所で大変驚いたものでございました。

 そして昨年の秋、『「邪馬台国」はなかった』出版三十周年のお祝いの期に、『壬申大乱』と題する、かつて人の指摘したこともない九州佐賀の大事件とする歴史書をお出しになりました。大変な力作を拝見させて頂いたものでございました。私もその時、お祝いの気持ちに添えて「謡曲にも天武天皇は九州へ逃げたといっています」と、本当はそう申し上げたいと切に思ったのでございましたが―。悲しいかな無いのです。見つかりません、「国栖」という文字が、地図に。探しました、福岡県も佐賀県も折あらば。もうぼろぼろの地図を広げては何とか見つけたい、何としても『国栖』という謡曲が九州の物語であることを証明したいと、その思いが消えぬまま日が過ぎました。土地勘の無いことは本当に悲しく一年見送りました。思えば、鉄道と幹線道路を吉野が里から有明へかけて行ったり来たり、「国栖」を探して地図の上に目を走らせてばかりいたということです。

 ところが昨日偶然、九州の昔のガイドブックを何気なく手にしてパラパラと。何と何とそこに「日田」「天が瀬」「玖珠」とあるではありませんか。地図にも大きな字で並んでいるのです。あれほど苦労して探し求めた「国栖」が「玖珠」として筑後川の真ん中辺り。ここは筑後川の上流でこの辺りの流れを玖珠川というらしく、川の名までもが堂々と出ています。北側には日田の町もあり、その並び東に玖珠の町が開けています。思いもしなかった所です。

 天武天皇がこんなルートで逃げ込まれたとは。ここは水郷で今も鵜飼いで有名の由。古代の幹線道路は川であったと、今更のように迂闊さを思い知った次第です。

 謡曲の国栖とは字の違う玖珠ですが、恐らく同じでありましよう。天皇は筑後川をここまで逃げ伸びた時、大和からの追っ手が迫ったのです。地方の小さな首領であった国栖と言う翁と姥は、その時舟で多分鮎でも漁って帰って来た所でした。翁と姥は高貴の人の危険の迫るのを知るや、咄嗟の機転で舟を伏せて天皇を隠してこの難を去らせるのです。そして家へ伴い「二、三日、供御を近づけ給はず」と言う天皇に国栖川(玖珠川)にて釣った取りたての鮎を焼き、姥は根芹を洗って供御に供えたと。

「蓴采(じゅんさい)の羮(あつもの)、鱸魚(ろぎょ)、とてもこれにはいかで勝るべき」「朕帝位に上らば翁と供御とを召さん」

と言って深く感謝された由。その後、天武朝廷において元日のお祝いには必ずこの翁が参上して喜びの舞を舞ったと謡曲は言い伝えるのです。

 この後、天皇は筑後川を西へ下り有明の海の側に進駐していた「淑き人」に会われて淑き多良(たら)人の協力を得て関西における戦いにのぞみ、天智朝を倒してこの乱は終わります。

 私は古田武彦氏の『壬申大乱』を取り出して再び読ませて頂きました。そして自分の本の読み方の杜撰なこと、飛ばし読みの失礼さを、半分より理解できていなかったことを心より悔いたことです。もっとちゃんと隅々まで理解していたなら玖珠の在所くらいはすぐに察することができたのです。それはこの戦いに大きく力となった大分の君恵尺(おほきだのきみえさか)。この君の勢力範囲は玖珠川のすぐ南ではありませんか。天皇がここでひとまず船を捨てたことも、恵尺の援けを得るためであったと思えるのです。

 九州における大きな中央部勢力の九州王朝からの離脱は、薩夜麻(さちやま)君にとりこれは痛手であったことでしょう。天武が筑後川を遡り玖珠の地でしばし身を隠そうとしたことも、やはり大分の恵尺を頼ってのことではなかったでしょうか。親唐勢力の筆頭は恵尺であったと書かれています。

 また、いつものことながら古田先生の余人を許きぬ博学の凄さを、詩経の中の「淑き人」を示されて天武の万葉歌を解読され、天武は詩経にも造詣のあった人物と看破されました。余人の容喙を許さぬ万葉解釈であり、壬申の乱を述べることの決め手として後世の歴史に長く残ることと存じます。

 この壬申の乱前、天智天皇と藤原鎌足との接近を、対唐戦闘態勢からの離脱と方向転換を密約するための大和来訪と見抜かれております。この時既に恵尺君、鎌足、大和天皇家の親唐態勢はできあがっていたと。天智亡き朝廷はこのことをよく知っていたために、天武の吉野行きを虎に翼と恐れたのであると。よくこれほど透徹した解説をなされた歴史書をお出し頂いたことと今更のように思います。



 遺跡からの出土物、金石文、中国や朝鮮の史書、万葉集、由緒ある神社や寺院の由来書などのほかに伝統舞踊や謡曲までもが、隠蔽された古代史の真実を解明するため史料となるとは驚きだ。『日本書紀』という権力による検定合格国書の記述をそのまま「真」とするヤマト王権一元主義論文はすべて無効である。

 これで「壬申の乱」を終わります。

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