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《「真説・古代史」拾遺編》(48)

壬申の乱(20):『古事記』序文が描く「壬申の乱」(2)


 『日本書紀』では、大友皇子が大海人皇子を討つべく兵を整えたので、大海人皇子はやむなく挙兵したという大義名分、大海人皇子こそが正当な皇位継承者であると強調している。ただこの一点を主張するために『日本書紀』が編まれたと言ってよいくらいだ。

 これに対して『古事記』では、大海人皇子は南山に入る前に挙兵(謀反)を決意している。つまり、大海人皇子は近江朝を滅ぼすための準備をする目的で南山に入り、その地で軍勢も備わってきた(「人事共給はり」)ので東國に進軍した、と言っている。しかもその決意を促したものは「夢の歌」の占いによると、こどもだましのような正当化をしている。

 『古事記』序文は後代に付け加えられたとする論者は、『古事記』序文の「壬申の乱」は『日本書紀』の「壬申紀」を使って書かれているから、ということをその論拠の一つに挙げている。上に述べたように私には、『古事記』序文は『日本書紀』の大義名分に真っ向から対立していると読めるのだが、学者さんたちにはそうは読めないらしい。従って当然、『日本書紀』の記事と整合性をもたせるため、「夜の水(かは)に投(いた)りて」を「夜半に川に至り」と解釈して、その川は「伊賀の名張の横河」と解釈することになる。しかし、『日本書紀』では、横河にさしかかったときに占いをしたのは、吉野に入るときではなく、吉野からの脱出行の途次のことである。また、何の根拠も示さずに「南山」は「吉野山」としてすましている。はたして吉野山を「南山」と呼ぶ例があるのだろうか。これは固有名詞ではなく「南にある山」という普通名詞と考えても、「伊賀の名張の横河」の「南にある山」では、あまりにも離れすぎているし、吉野山は伊賀の名張の南でもない。無茶な比定だ。『古事記』が描く「壬申の乱」と『日本書紀』のそれとはおおいに異なる。

 さて、古賀さんは「夜の水に投りて」(原文「投夜水而」)という従来の訓読に疑問を呈し、次のように読解している。

 古田氏が指摘されたように、壬申の乱の吉野を佐賀県吉野とするならば、『古事記』序文に見える「夜の水」や「南山」も九州の地と考えるべきであろう。通説では「夜の水」を名張の横河とするが、原文の「夜水」は河名の漢文風表記と考えるべきではあるまいか。例えば、中国では河の名称として「洛水」「漢水」と言うように、「夜水」を日本風に言えば「夜川」となろう。このような名を持つ川が九州にあるだろうか。ある。九州第一の大河、筑後川は「一夜川」という別名を持つ。たとえば、江戸時代の筑後地方の地誌『筑後志』には次のように記されている。

 「一夜川 是も亦筑後川の異称なり、俚俗の傳説に、普光山観興寺の佛像を刻む所の異木、往昔、豊後國の山渓より流れ出て、一夜にして此川に到り。大城の邑に止りぬ。爰を以て一夜川と名くと。按ずるに、例の浮屠の妄説にして、論ずるに足らず。一夜川の名實未だ詳ならず。」(『筑後志』)

 室町時代の連歌師宗祇(1502没)の著書『名所方角抄』にも「一夜川、千とせとも俗に筑後川ともいう也」と記述されている。この一夜川こそ夜水と表記するにふさわしい川名である。



 では「南山」とはどの山を指しているのか。次のように続けている。

 近畿から九州に落ちのびた天武はこの一夜川(夜水)に至り、自らの運命を「夢の歌」として聞いたのだ。それは大友皇子や九州王朝に替わって自らが「天位」につくことを告げていた。しかし、「天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し」た。この南山も当然九州だ。しかも、夜水(筑後川)の近くでなければならない。そのような山はあるか。これも、ある。筑後川を渡るとそこには「曲水の宴」の遺構を持った筑後国府がある。そして、その先には有名な高良山神籠石山城が屹立している。この高良山こそ、九州王朝の都大宰府のほぼ真南に位置しており、南山と呼ばれるにふさわしい山である。高良山神籠石に籠もり、天武は時を待った。「人事共給」わる時を。



 次に古賀さんは「人事共給(そな)はりて」(原文「人事共給」)という訓読(「共給」=「そなわる」)にも疑問を呈している。

 この読みは強引ではあるまいか。「共給」とあれば、「共に給わる」と読むのが普通であろう。人と事を共に給わった、である。

 ところが、この「給う」という語は上下関係を前提とした言葉であり、上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。従って、これでは天武よりも上位者が下位者たる天武に軍勢を与えたという意味になり、通説では理解困難な読みとなるのだ。岩波の編者達が「共給」に「そなわる」という無理な訓を与えたのもこうした事情からであろう。

 なお、「給」には「たまう」と「たまわる」の両方の語義があるが、今回のケースの場合は「たまわる」と解さざるを得ない。主語を天武として「たまう」としたのでは、天武が最初から軍勢を持っていたことになるし、誰に与えたのかも不明である。やはり、ここは「たまわる」と読むほかない。天武よりも上位者が天武に軍勢をたまわったのである。

 この「人事、共に給わる」という読みは、一元史観では理解困難な読みであるが、多元史観、古田説に立脚すれば二つの可能性が考えられる。一つは、中国(唐)の筑紫進駐軍、郭務悰が天武に援軍と近江朝打倒の承認を与えたという可能性。たとえば、『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からは、唐との協力関係がうかがわれるのである。

「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」(『釈日本紀』)

 天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務悰帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したようである。

 もうひとつは、九州王朝が与えたというケースだ。たとえば、壬申の乱の功臣に大分君恵尺(おほきだのきみえさか)がいる。九州は大分の実力者と推定されるが、こうした人物が天武に従ったことを考えると、九州王朝が天武に援軍をさしだしたとも考えられよう。いずれも、当時、天武よりも上位者である。現在の所、どちらが天武に援軍や承認を給わったのか断定できないが(唐と九州王朝の両者が天武を支持したという可能性もあろう)、天武より上位者が九州の地に存在したことは間違いないし、太安萬侶はその事実を知っていたのである。



 最後に、『古事記』序文の史料性格と残された問題点について、次のようにまとめている。

 『古事記』序文における壬申の乱の記述は、大変慎重かつ巧妙に書かれている。『日本書紀』のような虚構に満ちた記述ではなく、上表文として恐らくは大和朝廷内周知の歴史認識(九州王朝の先住と王朝の交代)に基づいて記されているのであろうが、九州王朝の存在を直接的には見えない文章表現としている。それでいながら、「夜水」や「南山」などというギリギリの表現で壬申大乱のスケールを記していると言えよう。

 壬申大乱の勝者、天武は「天位」に即位した後、事実上の列島内第一実力者として、本格的な王朝体制の構築を開始する。律令や条坊制を持つ藤原京など、天武紀には様々な事業の開始記事で飾られている。この時期、九州王朝との力関係や大義名分上の関係など、まだまだ不明な問題が多いが、間違いなく言えるのは、国内的には壬申大乱こそ、大和朝廷が列島の代表者となった画期点の一つだったことである。その証拠に、大和朝廷は八世紀半ば時点でも、壬申の乱の功臣やその遺族を顕彰し続けた事実が上げられる(『続日本紀』天平宝字元年(757)12月)。これからは、そうした視点から壬申大乱の更なる研究が望まれるであろう。



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