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《「真説・古代史」拾遺編》(46)

壬申の乱(18):大海人皇子と郭務悰


 次いで古田さんは「持統紀」の中の「不思議な文」を取り上げている。

692(持統6)年閏5月
己酉(つちのとのとりのひ 15日)に、筑紫大宰率河内王(つくしのおほみこともち)等に詔して曰(まう)さく「沙門(ほふし)を大隅と阿多とに遣わして、佛教(ほとけのみのり)を傳うべし。復(また)、大唐(もろこし)の大使(おほつかい)郭務悰(かくむそう)が、御近江大津宮天皇(あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと 天智天皇)の為に造れる阿彌陀像(あみだのみかた)上送(たてまつ)れ。」とのたまふ。

 この記事以前にも、以後にも、これに関連すべき記載はない。

誰かが、筑紫に来ていた郭務悰に会い、天智天皇の「病い深き」さま(或は「崩」)を告げた。これは確かだ。さらにその誰かが、相手の郭務悰に向って、「阿弥陀の作造」を要請した。この可能性もまた、極めて高いのではないだろうか。なぜなら、それなしに「旧、敵国の将軍」たる郭務悰が、いきなり天智天皇のために「阿弥陀仏像を作る」などということは考えがたいからである。明らかにこの「郭務悰と持統天皇との間」には、介在した、謎の「誰か」がいる。

 その「誰か」は、おそらく「僧形」の仏教者である。そしてその「誰か」は、持統天皇と「深い関係」にある人物だ。そしてその「誰か」は、郭務悰と「深い信頼関係」を結んだ人物だ。〝並みの人物″などではありえない。

 そしてこの記事は、大国(唐朝)派遣の中心人物にかかわる記事であるから、この記事自体が「一片の造作」としての虚事というようなことはありえない。なぜなら日本書紀は漢文であり、中国(唐)側に〝見られる″ことを十分に〝予想″した、或は、〝予想しすぎた″史書だからである。

 すなわち、この一見〝唐突″に見える「郭務悰が天智天皇のために、阿弥陀仏像を作った。」という記事は、史実だ。つまり真実(リアル)なのである。その作製場所は「筑紫」だった。だから「筑紫大宰率」に対して、持統はその仏像の「上送」を要求したのである。たとえ「持仏のような小仏像であったとしても、持統天皇にとっては、忘れる能わざる「思い出」の仏像、記念の仏像だったのであろう。たとえ朽ちやすい「小さな木像仏」だったとしても、彼女にとっては放置しがたいもの、そして〝手もと″にとっておきたいものだったのであろう。

 この「誰か」とは、誰か。すでに本稿を読みすすんでここに至った人には誰人にも明らかであろう。 ― 天武天皇だ。

 日本書紀の編者は、全体においては「郭務悰と天武天皇との、筑紫における出会い。そして深い、両者の信頼関係、それを〝隠し″た。おそらく、両者からの「要請」にもとづくものであったであろう。〝止むをえぬ″秘密事項に属したのであろう。けれども、ここでもまた、史家は己が性(さが)に従い、真実の「一断片」を、この〝唐突″な一記事、一見些細な一挿話の中に、ひっそりと封じこめたのではあるまいか。

 歴史の女神は天地をおおう一大雲霧の中から朽ちぬ真実の相貌を徐々にしめしはじめ、今はクッキリとその眼晴を見せたように思われるのである。



 『真実の「一断片」を、ひっそりと封じこめた』のは、ミスではなく、意図的だったのではないだろうか。『日本書紀』の編者たちの中には滅亡した九州王朝ゆかりの知識人もいただろうと、容易に想像できる。日本の天子は近畿天皇家だけという大和王権の大義名分のもとに編まざるを得ない史書の中に、九州王朝の存在を示唆する記事をひっそりと潜ませていたのではないか。

 万葉集にも真実の「一断片」がたくさん隠されていることを私(たち)は既に知っている。万葉集の選者・大伴家持も九州王朝ゆかりの歌人ではなかっただろうか。こうした問題は改めて取り上げたいと思っている。

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