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《「真説・古代史」拾遺編》(44)

壬申の乱(16):「修行佛道」問題


 大海人皇子が出家して、修道のため吉野へ向かうという記事は、読者の注意をそこに引きつけたいかのように、「天智紀」の末尾と「天武紀」の冒頭と、二度出てくる。

天智10年10月17日
臣(大海人皇子)は謂願(こ)ふ、天皇(天智)の奉為(おほみため)に、出家(いへで)して修道(おこなひ)せむ」とまうしたまふ。天皇許す。東宮(まうけのきみ 大海人皇子)起ちて再拝(をがみ)す。便ち内裏の佛殿(ほとけのみあらか)の南に向(い)でまして、胡床(あぐら)に距坐(しりうた)げて、鬢髪(ひげかみ)を剃除(そ)りたまひて、沙門(はふし)と為りたまふ。是に、天皇、次田生磐(すぎたのおしは)を遣して袈裟を送らしめたまふ。壬午(みづのえうまのひ 19日)に、東宮、天皇に見えて、吉野に之(まか)りて、修行仏道(おこなひ)せむと請(まう)したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等(おほまえつきみたち)侍(つか)へ送る。菟道(うぢ)に至りて還る。

天武4年冬10月17日
天皇、東宮に勅(みことのり)して鴻業(あまつひつぎのこと)を授く。乃ち辞譲(いな)びて曰(まうしたま)はく、「臣(やつがれ)が不幸(さいはひな)き、元より多(さわ)の病有り。何ぞ能く社稷(くにいえ)を保たむ。願はくは陛下(きみ)、天下(あめのした)を挙げて皇后(きさき)に附(よ)せたまへ。仍(なほ)、大友皇子を立てて、儲君(まうけのきみ)としたまへ。臣は今日出家して、陛下の為(みため)に功徳(のりのこと)を修(おこな)はむ」とまうしたまふ。天皇、聴(ゆる)したまふ。即日(そのひ)に、出家して法服(のりのきもの)をきたまふ。因りて以て、私の兵器(つはもの)を収(と)りて、悉に司(いほやけ)に納めたまふ。壬午に、吉野宮に入りたまふ。

 この記事に対する古田さんの論評は次のようだ。

 天武が、まだ天智が生きているときに「仏道を修行する為に吉野へ行こうと思う。」と言います。私などは、仏道を修行する為には、山の中の吉野が便利な所だ。そう今まで思っていた。しかし考えてみると仏道を修行する為に山の中へはいるという考え方はもっと後世の話である。当時の仏教7・8世紀の仏教は都会のど真ん中で修行する。奈良や京都はお寺だらけだ。奈良や京都は山の中ではない。都仏教です。むしろ高野山の方が例外である。(比叡山は京都のそばで、京都の守神の山である。)山の中へと仏教が一般化してくるのは、弘法大師あたりの後世の段階である。中心地としての都会の仏教である。

 それに当時奈良県吉野に大きな有名なお寺があったとは聞いてはいない。ですから奈良県吉野へ仏道修行に行くというのは当時としてはおかしい。

 ところが筑紫の方へ仏道修行に行くと言うのなら、中国から仏教が最初に入ってきたのは当然筑紫である。関係する話も必要ですが、今は省略して言うならば、筑紫の方へ仏道修行に行く。佐賀県吉野の方へ行くというならば、こういう話は意味がある。



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