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《「真説・古代史」拾遺編》(43)

壬申の乱(15):「倭京」問題(2)


 この「倭京」問題も九州王朝の存在を認める立場に立てば、すっきりと解明できる。

 「九州年号」の中に「倭京(618~622)」という年号がある。( 「日出ずる処の天子(3) ― 九州年号(1)」 を参照してください)

 このような年号の存在は「倭京」という名の都域が存在していたことを示している。つまり、自国の都域を「倭京」と名づけ、そのシンボルとして、この「年号名」が採用された、と考えられる。

 ではその倭京はどこにあったのだろうか。九州王朝の年号に現れているのだから、当然「筑紫」であろう。その領域は、当然、「紫宸殿」「大裏(内裏)」「大裏岡(内裏岡)」「朱雀殿」などの〝地名群″をもつ太宰府の地をふくむ。さらに、「正倉院」の地をふくむ筑後川領域もまた、その中心領域に入る。つまり、例の神籠石群が取り囲む中心域の「筑紫の地」(筑前と筑後をふくむ)を中心とする領域である。従って、もしこれを「訓読」するなら、「やまとの京」ではなく、「ちくし(つくし)の京(みやこ)」と訓むべきだと、古田さんは提唱している。

 古田さんは、「肥前の国」の一画(筑後川の右岸領域、基肆郡・三根郡など)もまた、「倭京」領域に入っていた可能性がある、と言っている。「明治前期、調査報告書」によれば、基肆郡には都(みやこ)・都原(みやこばる)の「字地名」が残されているという。

 さらに、この「倭京」という年号を「倭京縄(じょう)」と伝えているものもある。現在の久留米市に城(じょう)の「字、地名」があり、近隣に「城島(じょうじま)」もある。このことから、古田さんは「この点、或は、この地帯が「倭京」の一角、乃至中枢地に属していたことの痕跡であるかもしれぬ。」と推測している。

 ともあれ「倭京」という年号で呼ばれていた時代は、九州王朝中興の祖とも言うべき「日出づる処の天子」多利思北孤の時代の直後に当たっている。九州年号は
定居(611~617)
倭京(618~622)
と続くが、この両年号は「都城の領域の制定」と共に施行されたこと考えて、ほぼ間違いないだろう。

 「倭京」という術語はすでに存在していた。7世紀前半の「618」以降「700」まで、83年間にわたって「年号」とは別個に、この述語は使用されていた。「701」の「倭国滅亡」まで、だ。

 その「倭京」の二字を、〝抜き出し″て日本書紀は「転用」した。白雉4年(653)~天武元年(573)の間に、これを〝ちりばめ″たのである。それが、先にしめしたような〝チグバグさ″の理由だ。前後の文面、言いかえれば「近畿周辺のデルタ地帯」(近江―吉野―関ケ原)の中に〝収り″が悪いのである。

 だがこれを、「吉野―肥前(佐賀県)」と見なした場合、何の矛盾もない。少なくとも〝収り″の悪さは存在しないのだ。なぜなら「吉野 ― 倭京」は、文字通り〝指呼の間″だ。場合によれば、その「吉野宮」は「倭京の西端部の一画」にあったかもしれないのであるから。

 ただし、日本書紀が〝緻密に、日誌風に記載した″あの「日程表」がはじけ飛ぶこと、とどめがない。すでにその「日程表」の不成立と不道理は、三森尭司氏の「騎馬行、批判」が見事に立証し尽くしたところだった。緻密に作製された「一片の作文」だったのである。

(中略)

 以上のような「全体像」の中でのみ、日本書紀の「孝徳・天智・天武」の三紀中に出現する「倭京」もまた、理解する他はないのである。

 日本書紀に描かれた「壬申の乱」像、それはついに一片の幻にすぎなかった。近畿周辺のデルタの上に造成された一個の蜃気楼にすぎなかったようである。



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