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《「真説・古代史」拾遺編》(42)

壬申の乱(14):「倭京」問題(1)


 「倭京」という用語は『日本書紀』中に全部で7回出現している。全て「天智・天武」に関する記事の中である。

① 653(白雉4)年(「孝徳紀」)
 是歳(ことし)、太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄皇子)奏請(まう)して曰(もう)さく、「冀(ねが)はくは倭京に遷(うつ)らむ」とまうす。天皇(孝徳)、許したまはず。

② 667(天智6)年
 八月(はつき)に皇太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄)、倭京に幸(いでま)す。

③ 672(天武元)年5月
 或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて、皇太弟(まうけのきみ 天武。大海人皇子)の宮(みや)の舎人(とねり)の、私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

④ 672(天武元)年6月

 (大友皇子が)穂積臣百足(ほずみのおみももたり)・弟五百枝(おとといほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭京に遣す。

⑤⑥ 672(天武元)年7月
 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(うみつみちのいくさのきみのおみあへまろ)等、倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎(ちあまりのうまいくさ)を率(ゐ)て、急(すみやかに)に倭京に馳せしむ。

⑦ 672(天武元)年9月
 (天武は)庚子(かのえねのひ 12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮(しまのみや 明日香村島の庄にあった離宮)に御(おはしま)す。

 「岩波」は「倭京」をすべて「やまとの京(みやこ)」と訓んでいる。③には頭注があって「飛鳥の地を指す」と述べている。⑦の「嶋宮」には補注があって「明日香村島ノ庄にあった離宮」と解説している。つまり「倭京」は「大和」にあると解して疑っていない。

 古田さんは、この「定説」に、次のような疑点を挙げている。

(1)
 神武天皇以来、近畿天皇家の〝中心拠点″は、その多くが「大和」の中にあった。だから「倭(やまと)の京」というのでは、それらの中の〝いずれ″を指すか、明確ではない。

(2)
 上の①から⑦までの用例が示すように、『日本書紀』中のこの用語の出現は653(白雉4)年以降であるが、「孝徳紀」に「『倭京』 を制定した」という旨の記事はない。つまり、〝固有名詞″化したという、制度上の記載はまったくない。

(3)
 そのため、従来はこの「倭京」を以て 「難波京」(斉明天皇)・「近江京」(天智天皇)と区別して「大和の京」と解してきたが、
(a) 大和の中の〝どこ″を指すか。
(b) 最後の出現⑦(天武元年9月12日)以後、なぜ出現しないか。
といった点について、必ずしも明確な「答」が出されていない。

(4)
 『日本書紀』の成立は720(元正天皇の養老4)年であり、それは「大和の京」たる平城京の中で作られている。その第一の読者もまた「大和の京」の朝廷人・官僚たちである。このことを考えれば、この「倭(やまと)の京」という表現はいよいよ〝あいまい″である。

 厳密に理解しようとすればするほど、チグバグした問題が錯綜する。なぜ、「同じ大和でも、平城京ならぬ、これこれの地」をさすという明確な表記、たとえば「飛鳥京」「長谷京」といった様な表記を用いていないのだろうか。

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