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《「真説・古代史」拾遺編》(41)

壬申の乱(13):「虎翼」問題


 天智の許しを得た大海人皇子は、出家して「吉野」へ入った。その吉野入りの時の記事は次のようである。

壬午(みずのえうまのひ)に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣(ひだりのおほまえつきみ)蘇賀赤見臣(そがのあかえのおみ)、右大臣(みぎのおほまえつきみ)中臣金連(なかとみのかねのむらじ)、及び大納言(おほきものもうすつかさ)蘇賀果安臣(そがのはたやすのおみ)等、送りたてまつる。菟道(うぢ)より返る。或(あるひと)の曰く、「虎に翼を着けて放てり」といふ。

 この「虎翼」は、中国の次のような故事からとられている。
「虎翼一たび奮わば、卒(つい)に制す可からず。」(後漢書、翟酺伝)

「諸橋、大漢和辞典」では「虎の猛き上に更に翼をつけると、其の凶暴の制し難くなること、転じて勢力家に権威をまし与へる喩」と解説している。

「虎の為に翼を傳(つ)く」という成句もある。

「虎の為に翼を傳(つ)くる毋(なか)れ。将(まさ)に飛びて宮に入り、人を擇んで之を食はんとす。」(逸周書、寤敬解)

「周書曰く、虎の為に翼を傳くる毋れ。将に飛びて道に入り、人を擇びて之を食はんとす。夫れ不肖人を勢に乗ず、是れ虎の為に翼を傳くるなり。」(韓非子、難勢)

 この印象的なフレーズは、一体何を語っているか。先ず、「虎」が天武(大海人皇子)その人を指していることは明白だ。では、「翼」とは何だろう。果して〝出家して(大和の)吉野盆地に入る〟ことか。

 人も知る、吉野盆地は″周囲が山地″だ。その盆地から周辺へ通ずる道は、わずかに三~四の小道。しかも、各道とも大和の人には周知の道だ。そこを〝ふさいで″おけば、中の盆地はおり「檻」と同じだ。いわば、「天然の檻」をなすような地形なのである。

 壬申の乱で有名な「吉野から関ケ原方面へ」の道も、「天武のみ知る」道ではない。この大和周辺の人々には周知の道だったのではあるまいか。もし、弘文(大友皇子)側が、天武を「ライバル」視し、彼を「不穏人物」視していたとするならば、当然、兵力をもって各道を〝ふさいだ″はずだ。そのためには、たいした「兵力量」もいらなかったであろう。

すでに、いわゆる「大化の改新」のあと、古人大兄も、同じ道を歩んだ。「出家」して「吉野」に入ったのである。そのさい、天智(中大兄皇子)が彼を斃すには、わずか「四十人」の兵しか必要ではなかった。

(「孝徳紀」からの引用文を略す)

右は、近江朝の人々にとっても、わずか26年前の極めて印象的な事件であった。いわば万人周知の事件だ。その悲劇の地、「吉野盆地」へ再び天武が〝行く″というのに、なぜ、「虎が翼を傳ける」などと形容するのであろうか。逆に、「虎も、遂に袋に入る」といった〝評言″となるのではあるまいか。

 もちろん、実際には、今回は天武が〝裏をかい″て、この「袋の鼠」状態を脱出しえたとしても、当初の「近江雀」(「京雀」)の〝うわさ″としては、やはり「大海人皇子も、ついにあの窮地に入った。」と言うべきところ。それが逆にこの「虎翼」評となっているのは、何か不可解だ。

 これに反し、わたしの立場の場合、この「吉野」は「大和の吉野盆地」ではなく、「有明海に臨む吉野」だ。そこには、絶大なる唐の制圧軍がいた。もし天武がこの巨大勢力と〝手を結ぶ″ならば、それこそ「鬼に金棒」だ。それでなくても、すでにその人間的魅力と迫力で「虎」にたとえられていた天武は、それこそ大いなる「翼」をうることとなるのではあるまいか。

 この「虎翼」評自体は、もちろん日本書紀の編者の「造作」 ではない。なぜなら、右にのべたように、前後のストーリー、その文脈と合致していない。何ともチグバクだからである。

 当時、人口に膾炙した、この評語を〝生かし″てはめこんださいの「不手際」、それがはからずもここのチグバグに現われているのではあるまいか。



 では大海人皇子はどのような「翼」(威力)を得たのであろうか。古田さんは、一つは駐留していた唐の水軍、その「海上」を〝疾走しうる能力″を挙げている。そしてもう一つの「翼」として、大海人側の一大勢力として大活躍をした大分君恵尺(おほきだのきみえさか)の存在を挙げている。

 彼が壬申の乱で活躍していることは有名だ。有名だけれども、その活躍が近畿内の「陸地」に限られているのは不審だ。なぜなら、彼の本拠は「大分」であるから、九州の一画だ。当然「九州の陸地」と共に、「九州内の水軍」それも瀬戸内海領域の西域は、当然彼の勢力範囲内に入っていたのではあるまいか。

 それだけではない。もう一つ、注目すべき重大事がある。それは、九州内の諸豪族、その大半は、「筑紫の君」すなわち「倭国(九州王朝)の天子」に従って、州柔(つぬ)城の陸戦や白村江の海戦に参加し、その多くは、或は海中に没し、或は唐側の捕囚の身となっていた。その可能性が大だった、と考えてほぼあやまりないのではあるまいか。これに対して「大分君恵尺」はちがった。「健在」だったのである。すなわち、彼は「白村江の戦」などに参加しなかった。中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足の「方向転換」に従って、「斉明天皇の喪」を「名分」として、対唐戦闘能勢からの離脱を決断したのである。だから、この時点(天智10年〈671〉)において、「出兵」し、さらに近畿に「軍事行動」を展開する能力を所有していたのである。思い切って言おう。「名」は「大分君」であっても、この時点では、事実上「九州一円支配」の実力をもっていたのではあるまいか。「陸上」はもちろん、「海上」においてもまた。

 この状勢は、次の一事を意味しよう。「日本列島へ到来した勝者、その唐軍(水軍と陸軍)を迎えた『列島内、親唐勢力』の筆頭は、この大分君恵尺である。唐軍に対する最大の(九州内)協力勢力であった。」この視点だ。この視点からすれば、その大分君恵尺の協力をえた時、天武(大海人皇子)はまさに「虎が翼をうる」ための基盤をえたのではあるまいか。

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