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《「真説・古代史」拾遺編》(40)

壬申の乱(12):「留守司」問題


 「留守司」の存在意義を、古田さんは「留守司」と「留守官」との違いから説き起こしている。「留守官」は『日本書紀』では二回出現している。

 一回目は、658(斉明4)年11月の記事
(1)  十一月(しもつき)の庚辰(かのえたつ)の朔壬午(ついたちみづのえうまのひ)に、留守官(ととまりまもるつかさ)の蘇我赤見臣(そがのあかえのおみ)、有間皇子(ありまのみこ)に語りて曰く、・・・

 2回目は、「持統の吉野行き」問題の解明のときにも引用した692(持統6)年3月の記事
(2)  三月(やよい)の丙寅(ひのえとら)の朔戊辰(つちおえたつのひ)に、浄廣肆廣瀬王(じょうこわうしひろせのおほきみ)・直廣参当摩真人智徳(じきくわうさむたぎまのまひとちとこ)・直廣肆紀朝臣弓張(ちょくくわうしきのあそみ)等(ら)を以(も)て、留守官(とどまりまもるつかさ)とす。  「留守司」も「留守官」も「とどまりまもるつかさ」と訓んでいるが、このふたつはまるで違うものだ。

 上の「留守官」はいずれも、天皇の巡幸にさいし、「都」におく、留守番役を指している。それに対して、「留守司」は第一権力者が恒常的にいないときに、その留守をあずかり、軍事的にもっとも重要な要件である「駅鈴」発給の権限まで任せられている。まさに「異常事態」時の「司」(役所)である。

 天智や天武のとき、そのような「異常事態」があったか。 - ない。

 斉明天皇の「九州行き」は、確かに長期不在だ。だが、九州の朝倉に、現にいるのであるから、「留守司」などという役所の機構を「飛鳥」に作るべき理由はない。「留守官」で十分だ。

 その上、斉明7年(661)、彼女が崩じた後、当然「駅鈴」は天智と共に、近江京に置かれていたはずだ。少なくとも「天皇位に即いた」という「天智7年(668)」以降、そうでなければ、「天皇位に即いた」などということ自体、虚名となろう。

 そして天智が崩じ、弘文天皇(大友皇子)があとを継いだとき、何よりも先ず、「駅鈴」が(大友皇子にせよ、大海人皇子にせよ、)次の権力者の「手」に渡ったはずなのである。- 不審だ。

 何よりも先ず、「斉明在位」時点においても、飛鳥におかれたのは、せいぜい「留守官」だ。「留守司」などという″留守をあずかるための公的機構(役所)″などの作られるべき理由は全くないのである。

 また斉明天皇が「九州への発進」にさいして「飛鳥に留守司を置いた」旨の記事もない。そんなもの、略してもいいほどの記事、つまり「些事」なのだろうか。否、重大事である。その上、斉明は「観光旅行」などのために九州へ向けて発進したのではない。「戦う」ためだ。すなわち、軍事力の中心者として、決然と九州へと向ったのである。それなのに、その肝心の軍事力のシンボルである「駅鈴」を残してゆく、しかもそのための「公的機構(役所)」まで作る、というのは、まるでおかしい。全く″りくつ″があわないのである。

 従来の、壬申の乱研究の専門家たちが、この重大事を不審とし、論議の中心にすえた形跡のないこと、これがわたしにとっては一大不可解事だ。全く理解できないのである。

 では、わたしの立場から見よう。

 「倭国(九州王朝)」において、このような「留守司」は存在したか。或は〝存在せねばならなかった″か。 ― 「イエス」だ。白村江の戦において「捕囚」の身となった人、それこそ「倭国(俀国-たいこく-。九州王朝)の天子」たる薩夜麻(さちやま)である。筑紫の君と書かれている。

(A)
 天智10年(671)11月 ― 捕囚から帰国。「薩野馬」

(B)
 持統4年(690)10月 ― 大伴部博麻の表賞。「薩夜麻」

 右の(A)では特に、「野馬」という「卑字」が当てられている。これは逆に、このいわゆる「筑紫の君」が、近畿天皇家にとって〝目の上のたんこぶ″にも似た「存在」であったことをしめしている。その「薩夜麻」は、みずから一軍の先頭に立って戦に臨んだ。そして敗れたのである。

(中略)

 彼にとって″海外へ出陣する″という「長期不在」だ。当然、その本拠地である筑紫には「留守司」を置くはずだ。置かねばならないのである。そこはもちろん、太宰府。都府樓(都督府樓の略)の地である。そこには「(字)紫展殿」「(字)大裏」「(字)大裏岡」「朱雀門」等の地名が遺在し、この地がかつて「日出ずる処の天子」の在地であったことをしめしている。すなわち、ここに「留守司」がおかれていたのである。もちろん、「肥前(佐賀県)の吉野」とはきわめて〝接近″している。一日で到達可能の領域である。

 日本書紀の編者は、この特色ある「軍制中枢の公的機構(役所)」名を〝利用″した。これを、例によって例のごとく、「九州から大和へ」と〝移置″させ、あたかも「飛鳥の古京」にあった役所であったかのように「偽置」したのである。「換骨奪胎」だ。



 本来の「留守司」のありかが太宰府であるこを示す証拠がもう一つある。前回の「驛鈴」問題で引用した「延書式」の記述「大宰府、20口。三関・陸奥国・4口。大上国、3口。中下国、2口。」がそれだ。「大宰府」において〝異常″に多い。

 もちろんこれは、「大宰府は交通の要地である。」とか、「大陸への出発路である。」とか、種々の「理由」が考えられている。承知の通りだ。しかし、考えてみてほしい。右の「三関」など、「交通の要地」であるからこそ〝関所″なのではないか。大宰府だけの「理由」ではない。その上、「大陸への出発路」と言ってみても、玄海灘を「馬」で渡るわけではない。また、一方の大宰府から各地(近畿など)への交通も、陸路だけではない。島国の日本列島だから、海路も十分可能だ。

 だから、この「20口」という数値はやはり〝異常″に多い。わたしにはそう見えるのである。

 では、なぜか。わたしの立場から、これを見てみよう。

「『701』以前に、すでに倭国(九州王朝)には『駅制』があり、その中心は太宰府にあった。」

 これがわたしの基本の立場である。この立場から見れば、先の「20口」は何等不思議ではない。8世紀以降の近畿天皇家中心の駅制は、「701」以前の「倭国(九州王朝)」中心の駅制の〝継承と転換と発展″である。この命題をしめすもの、その遺制、それがこの「20口」なのだ。

 この「20口」問題もまた、今問題の「留守司」がどこにあったかを暗示する。当然それは太宰府の地である。(筑後川流域もふくむ。後述)



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