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《「真説・古代史」拾遺編》(38)

壬申の乱(10):大海人皇子、吉野行の目的


 大海人皇子が作った歌がもう一つある。

第27番歌

天皇、吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌

よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見(み)

紀に曰く。八年己卯の五月庚辰の朔の甲申、吉野宮に幸すといへり。


(歌の原文)
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見〈与〉 良人四来三

 『万葉集』の歌をいくつか暗唱しているが、この歌はそのうちの一つだ。よく意味の分からないおかしな歌だけど、言葉遊びの歌としておもしろく思ったのだった。ちなみに「岩波」は次のように解釈している。

「昔のよい人がよい所だとよく見て、よいと言った吉野をよく見なさい。よい人よ、よく見なさい。」

 この歌の意味を古田さんはどのように解しているだろうか。まずその「訓み」に疑問を呈している。実は「原文改定」されていると言う。おおよそ次のようである。

 下の句が「芳野吉見与 良人四来三」=「芳野よく見よよき人よく見」と訓まれているが、その「原文」は「芳野吉見 多良人四来三」であり、「芳野よく見よ 多良(たら)人よく見」と訓まれるべきだ。「多良」は地名である。「多」を「与」と直し、「土地鑑」を〝削り去っ″て、一段と〝珍妙″な歌にしてしまっている。

 では「多良」とはどこか。「吉野の国」(佐賀県)にある。だが、あの「吉野の耳我の嶺」とは大分離れている。吉野ヶ里とは有明海の対岸になる。

 すなわち、「天武の視点」はただに有明海の北岸部にだけ、とどまってはいなかった。その西岸部の「多良」にも注がれていた。その視野は「有明海」そのものにひろがっていた。

 この点、「大和わく」に閉じこめられていた、従来の万葉学では、想到さえなしえないところだった。そのため、あの「元暦校本」 に対して〝後から書き加えられた″校注である「朱字記入」に頼って、「多」を「与」に直した。こうすれば、実質上〝面倒な″「多」字を消し去ることができるからである。



 「多」を「与」で置き換えた訓みでは「よき人」が二度出てくるが、原文では「淑人」「「良人」と違った字が使われている。その違いを「岩波」は、前者を「昔の優れた人」、後者を「歌いかけられた人をほめ」たものと説明している。これも苦しい説明だ。

 原文に沿って復元した訓みでは「よき人」は「淑人」だけだ。この「淑人」とはいったい誰なのか。この問いは「なぜ、大海人皇子は、肥前の吉野を目指したのか」という問いと重なる。そしてあの〝珍妙″な歌の意味を解くことにつながる。

 大海人皇子は「肥前の吉野」に向かった。ここは無論、「大和の吉野」のような〝観光名所″ではない。「持統紀」の吉野行は、軍事拠点への倭国(九州王朝)の天子の行幸だった。「白村江の戦」直前のことだ。大海人皇子の吉野行は倭国の「白村江の戦」敗戦直後のことである。決定的な敗戦直後に、今さら、実権を失った倭国の天子に会いに行くわけがない。しかし、天武は誰かに会いに行った。そう、その「誰か」とは「淑人」だ。

 この二字は、中国の古典の『詩経』の中に、くりかえし出現する有名な「術語」だそうだ。古田さんは7例もの事例を挙げている。それによると、この「淑人」は単なる「よい人」ではなく、〝国政をあずかる人々″〝国政を左右しうる地位の人″を指している。

 作歌者・大海人皇子は、当然なこと、文字が読めたろう。さらに、彼は「詩経」など「中国古典の教養」も持っていたに違いない。そして彼自身がこの「淑人」という文字を〝使っ″た。〝天武が口ずさんだ″のを記録したとすると、こんな「小むずかしい」文字を〝当てる″とは考えられない。「良寸比等」といった字を当てればすむ。やはりこれは、「天武自身がこの文字を〝選ん″で書いた。」そう考えるほかはない。

 つまり、「淑人」は、天武より上位の人である。この重要な一語を、「天武が使う」ということは、天武がその相手を「自分以上の存在」として、敬意をはらっている、ということになろう。「淑人」もこの言葉の意味を知っていて、天武は自分の相手への敬意を理解してもらえると期待したことだろう。つまり、「淑人」も「中国古典の素養」がある。

 以上から浮かび上がってくる人物は、筑紫に駐在していた占領軍(唐軍)を率いていた郭務悰だ。郭務悰は8年間に6回も筑紫にやってきている。率いてきた兵士たちも254人、2000余人、2000人と、極めて多い。彼らは何を目的でやって来ていたのか。

 その目的は

第一、中国(唐)のみが「天子」であるという、大義名分。
第二、ふたたび、唐に対して敵対しえないような「軍事的制圧」体制の安定化。

 この二点にあったこと、およそ疑いえないところではあるまいか。彼等は「筑紫」に駐在した。「大和」に駐在した形跡はない。これも、重要なポイントだ。「完勝国の軍」が戦敗国へこれだけ頻繁に「来倭」しながら、その「倭国の首都」に入ることをためらう理由は全くない。

 では、「筑紫」の中の、どこにいたか。その一中枢地、それは「白村江の戦い」のための発進基地たる有明海、大村湾(長崎湾)、伊万里湾だ。その中枢地こそ「肥前(佐賀県)の吉野」であった。彼等、唐軍はのどかな「観光旅行」のために、はるばるこの日本列島まで来たのではない。その、敵の「軍事拠点」を完全に制圧するために来たのだ。それに対する、並みなみならぬ執心と熱意、それが右のように〝執拗″な「8年に6回」もの「来倭」だったのではあるまいか。

 その最大中心、それは有明海を前にした「吉野の国(佐賀県)」だった。その前にひろがる有明海には、敗戦の破れ壊れた「倭国の軍船」群の中に、あたりを睥睨するかのように、「唐の一大軍船」が威容をしめしつつ〝もやい″していたのではあるまいか。それを率いていた将軍、それは劉仁願であり、劉徳高であり、そして最も長く、そして深く、郭務綜その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。

 その「吉野」に、大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのであろう。亡き兄(天智天皇)の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。

 その〝会うべき人″、それはもちろん「(倭国制圧の)全唐軍の総司令官」以外になかった。「朝散大夫」(従五品下)の任官をもつ、大国唐の官僚にして軍人だ。その人に対して、「淑人」 - 「良人」として、〝呼びかけ″たのであった。〝呼びかけ″は成功した。「多良」を西岸にもつ、有明海を自分の眼前にしつつ。その喜びの歌だったのである。

 そしてそれは(おそらく)「暗号文」のような形で、近畿(近江、大和など)にいる〝仲間″に知らされたのであろう。そのためにあえてこの一見〝意味不明の形″がとられたのではないか。 - これがわたしの推量の帰結するところであった。

(中略)

 すなわち、「壬申の乱」はやはり、従来信じられてきたような「近江と吉野と関ケ原(岐阜県)」という、小さな近畿周辺デルタの中だけで展開されたものではなかった。

 7世紀後半の白村江以後、くりかえし、執拗なくらい、日本列島内の九州の一角にやってきて、中国(唐)中心の「大義名分」のもと、西日本を中心に軍事的制圧体制を敷きつづけてきた、あの不可思議な唐軍の動きと無関係ではなかった。それを「無関係」に見せようとして、「日本書紀」は〝作ら″れた。そのように「造作」された。これが「造作」の根本の動機だったのである。



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