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《「真説・古代史」拾遺編》(28)

「壬申紀」の吉野はどこ?


 これまで、古代史の真実を解明するための第一史料として、万葉集が貴重な役割を果たしてきた。大海人皇子が行った吉野が何処なのかの解明も、『日本書紀』だけをいくら精読しても解決しない。その解明の手がかりは、やはり万葉集にあった。古田さんは『万葉集』中の天武天皇の歌(第25・26・27番歌)に着目する。

第25・26番歌

天皇の御製歌(おほみうや)

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

或る本の歌

み芳野(よしの)の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るといふ 間なくそ 雨は降るといふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

右句々相換れり。因りてここに重ねて載す。


 ちなみに「岩波」は第25番歌の大意を次のように書いている。

「吉野の耳我の嶺にはいつも雪が降っていた。ひっきりなしに雨が降っていた。その雪や雨が絶えず降るように、やむときもなく物思いにふけりながら、自分はその山道をやって来たことだ。」

 もちろん「定説」では、「み吉野(み芳野)」を大和の吉野に比定している。しかし、全ての専門家が例外なく「耳我嶺(みみがのみね)」にお手上げになっている。つまり奈良県吉野をいくら調べても「耳我嶺」という山がない。ちなみに、「岩波」の頭注は次のように述べている。

「み吉野の耳我の嶺」
 この歌の類歌(巻13、3293)に御金高(みかねのたけ)とある。金峰山その他に擬せられているが、吉野山中の高峰であろうということ以外は不明。

 大海人皇子は無い山を空想して歌を作った?! そんなバカなことはあるまい。「大和の吉野」にこだわらずに、「耳我嶺」を探すのが順当だろう。「持統紀」の吉野が「肥前の吉野」だったのだから、当然、「肥前の吉野」を検討するのが順当だろう。「耳我嶺」探しの古田さんの理路もとてもスリリングだ。講演録からそのまま引用しよう。

 それで、これは佐賀県に有るのではないか。それで佐賀県を調べ始めた。吉野はありましたし「耳我」は、それに関連があるような名前で「耳田 みみた」と言うのがある。この「耳 みみ」は、魏志倭人伝と同様の長官を表す「彌彌 耳 みみ」だと思う。この長官を表す彌彌(みみ)は各地で残ってます。奈良県耳成山もその一つだと思う。大阪府堺市仁徳陵(大仙古墳)のある「耳原」もそうだと思う。そして田圃があるから「耳田 みみた」です。「我 が」と言うのは一定の集落の単位で本当は「衛 が」だと思う。今日古賀さんも来ておられるが、本当は児衛(こが)であろうと思う。吉野ヶ里の「が」も集落の意味だと思う。そうしてみると固有名詞部分は「耳」。「耳我 みみが」や「耳田 みみた」というのは有り得る。ここまで理解は進んだ。

 しかし困っていたのは「耳我嶺 みみがのみね」の「嶺 みね」というのは何処だろう。それが偶然理解が進展した。先ほど言いました土塁という300メートルの高速道路。それを佐賀県教育委員会にお電話をした。土塁を説明されている時に、徳富さんからその地名は上峰(かみみね)町にあります。峰郡ですから、同じ「峰」ではないかと言われた。私も上峰町というのが、吉野ヶ里の隣にあり、また峰郡も知っていた。そういうことは知ってはいたが、ところが字面が違うものだから、同じだと余り考えたことがなかった。言われて一瞬「ああ、そうですね。」と惑った。

 その翌翌日この歌に再度取り組んで、はっと思った。「耳我嶺尓 耳我の嶺に」と「嶺 峰 みね」があるではないか。私も今までこの「みね」をマウンティン(mountain)の事だと思っていた。専門家は全て山のことだと考えてきた。しかし、この「みね」は固有名詞なのだ。「三吉野之 耳我嶺尓 三吉野の耳我の嶺に」、AのBのCという三段地名である。吉野の耳我の峰に、つまり佐賀県吉野である。天武は壬申の乱直前佐賀県吉野。そこに来ている。そういう事に気が付いた。

 この話を群馬県の平田さんにお話ししたところ、この方が熱心な方で、関係する記事を『日本書紀』雄略紀から見つけて頂いた。

『日本書紀』雄略紀(岩波古典文学大系に準拠)

十年の秋九月の乙酉朔日戊子に、身狭村主青等、呉の献れる二の鵝を将て、筑紫に至る。是の鵝、水沼君の犬の為に囓まれる死ぬ。

別本に云く。筑紫の嶺の県主泥麻呂(ねまろ)の犬の為に囓まれる死ぬといふ。・・・


 そこに「筑紫の嶺の県主」、その形で登場する。呉の国から鳥を献上して来て、それを水沼君の犬が鳥を喰い殺した。その注にこれは嶺(みね)の県主(あがたぬし)の犬が喰い殺したとも言う。そう書いてある。これが「嶺(みね)」という字で正確に出てくる。「筑紫の嶺の県主」ですが、あの辺を筑紫風土記という場合は、肥前(佐賀県)を含んで出てきます。もっと細かく考えると「嶺の県主」は、現在の佐賀県峰(みね)の県主。その県主が川一つ隔てた水沼の君の支配下にある。水沼の筑後君の犬と言っているが肥前の峰(みね)県主の犬。その犬が献上してきた鳥を喰い殺した。それで明らかに「嶺の県主」は肥前の峰(みね)です。「嶺の県主」は「山の県主」では意味を成しませんから、やはり地名と考えざるを得ない。そういうことから見ましても、やはり天武の歌の「耳我の嶺に」の「嶺(みね)」は、佐賀県の峰(みね)という地名です。

 奈良県には無かった。どの専門家も困っていたのが、佐賀県に持っていくと答えが出た。それでやはり天武は、奈良県の山奥である吉野へ行ったのではなくて、佐賀県の吉野へ行った。そういう事を知った。



 それでは大海人皇子は何を目的に肥前の吉野へ行ったのだろうか。

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2012/12/10(月) 22:07 | | #[ 編集]
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