FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(35)

壬申の乱(7):「偽装・壬申の乱」


 古田さんが解明した「真説・壬申の乱」に入る準備ができたが、その前に『日本書紀』が描く「偽装・壬申の乱」のあらすじを復習しておこう。

 『日本書紀』の「壬申の乱」の叙述は、『紀』の中で他に例のない異常なものである。まずその長さが異常だ。第28巻(「天武紀」上)全部がそれに当てられている。次にその叙述法が異例だ。ドキュメント風に微に入り細を穿って描写している。そのあらましは次の通りである。(この頃、ヤマト王権の最高権力者は「天皇」ではなく「大王」に過ぎなかったのだが、以下は『日本書紀』の記述に従って記載する。)

 671年、病床に伏せっていた天智天皇は弟の大海人皇子を呼び,譲位の意志を伝えた。天智は子の大友皇子を太政大臣に任じており,次の天皇にするつもりでいた。そのような状況で譲位意志の表明は自分を陥れる謀略、返答によっては命すら危ないと大海人皇子は用心した。大海人皇子は天皇になる意志がないことを伝え,出家の許しを請うた。出家を許された大海人皇子は武器を朝廷に返し,出家して、妃の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ 後の持統天皇)と幼い子供たちを連れて吉野に入った。従者は数人の舎人(とねり)だけだった。

 671年12月、天智が没し、子の大友皇子(当時25歳)が政治の実権を握った。

 672年5月、吉野の大海人皇子のもとへ緊急事態を知らせる者がやってきて、近江の朝廷が先の天皇の墓陵を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせていると伝えた。さらに、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。大友皇子の妃で、十市皇女(大海人皇子と額田王との間の子)からも朝廷の動きが伝えられてきた。

 大海人皇子は身に危険が迫っていることを知り、吉野を出て戦うことを決意した。そのためには安全な地へ身を移さなければならない。大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行する。そして,舎人たちに命じて、東国の豪族たちを味方にする策を計った。

6月22日
 村国男依(おより)を美濃に派遣、挙兵を命じる。

6月24日
 倭京留守司に駅鈴を乞うが拒否された。
子の高市皇子・大津皇子の都からの脱出と、東国(美濃・尾張・三河から甲斐・信濃)の兵を集めることを部下たちに指示した。そして、大海人皇子は子の草壁皇子・忍壁皇子・鸕野讃良皇女(持統)、数人の舎人と十数人の侍女を連れ吉野を脱出し、夜を徹して伊賀に向かった。

6月25日
 加太(かぶと)峠を越えて味方が待つ伊勢へ向かった。途中甲賀を越えて脱出した高市皇子と合流して、伊勢に入った。そして、交通の要所である鈴鹿道と不破道を完全に確保して、近江京と東国とを遮断した。

6月26日
 大津皇子が近江より脱出してきた。美濃の挙兵が成功した。高市皇子(19歳)を不破(美濃)に派遣、また東海・東山両道の兵を出立させた。大海人皇子は伊勢桑名郡に至る。
 朝廷方は諸方に募兵使を出立させた。この夜、東方への募兵使が不破で高市皇子方の伏兵に捕われた。また、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を筑紫に、樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備国に遣わし、筑紫大宰・吉備国守を味方に引き入れようとしたが、失敗した。
 大和の大伴吹負(おおとものふけい)が挙兵を企て軍勢を集めた。

6月27日
 大海人皇子は、高市皇子の要請を受けて、前線本部のある不破へ行った。不破の近くの野上で、尾張氏(尾張地方の支配者)の私邸を行宮(あんぐう 仮の宮)とした。桑名にとどまっていた高市皇子を総大将とする前線本部には東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結した。

6月29日
 大伴吹負が挙兵して飛鳥の古京を占領した。大和の諸豪族みなこれに従った。大海人皇子は吹負を大和の将軍に任命した。

7月1日
 大伴吹負が、近江に進撃するため、乃楽(なら)に向った。吹負は河内方面の近江軍防衛のため諸道に兵を配置した。坂本財(さかもとのたから)らが朝廷軍の拠る高安城を占領した。

7月2日
 大海人軍、伊勢・近江両方面から攻勢を開始した。
 坂本財らは朝廷軍の将・壱伎韓国(いきのからくに)の軍と衛我河(えがのかわ 河内)で戦い、敗れて懼坂(かしこさか)の陣に退いた。

7月3日
 大伴吹負は乃楽山に駐屯した。

7月4日
  大伴吹負が乃楽山で朝廷軍の将大野果安(おおののはたやす)の軍と戦い敗走した。果安は飛鳥にいたるまで追跡したが、伏兵を恐れて引返した。
 朝廷軍が諸道より大和へ侵入した。
 吹負は逃走中、東方からの置始菟(おきそめのうさぎ)の救援軍にあい、引返して金綱井(かなずなのい)に駐屯した。そして、河内方面から侵入した朝廷軍の壱伎韓国の軍と当麻に戦い、これを破った)。
 この後東方から軍勢が多数到着し、朝廷軍を大破した。

7月5日
 朝廷軍の別将田辺小隅(たなべのおすみ)が倉歴(くらふ 近江甲賀郡)に駐屯していた田中足麻呂(たりまろ)の陣を奇襲した。

7月6日
  小隅はさらに進軍して、荊萩野(たらの 伊賀阿拝郡)の多品治(おおのほんじ)の陣を襲ったが、撃退された。

7月7日
 村国男依らが、息長(おきなが)の横河(近江坂田郡)において、朝廷軍を破った。

7月9日
 鳥籠山(とこのやま)の戦いで、再び村国男依らの軍が朝廷軍を破った。

7月13日
 安河の戦いで、大海人軍が朝廷軍を大破した。

7月17日
 栗太(くるもと)の戦いで、大海人軍が朝廷軍を破ってさらに追撃した。

7月22日
 最後の決戦が瀬田唐橋(せたからはし)で戦われた。村国男依の軍と大友皇子率いる朝廷軍とがそれぞれ両端に陣取って対峙した。朝廷軍は軍の後方が見えないほどの大軍であった。朝廷軍は橋の中程の板をはずして敵を落とすという罠を仕掛けていた。その罠を大津皇子の家来の大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が見破り、朝廷軍が射る激しい弓矢の中を突撃して罠を破った。それをきっかけに朝廷軍は総崩れとなった。
 大津京は陥落し、大友皇子ら逃亡した。
 大海人皇子軍は決着をつけるため一気に対岸を目指してつっこんだ。決戦は大海人皇子軍が朝廷軍を破り、大海人軍は瀬田川を渡った。
 大伴吹負は大和を完全に平定し、難波に至った。配下の別将は大和より北上して、山前(やまさき)の河南(山城乙訓郡)に達した。

7月23日、朝廷軍は敗走し、大友皇子は山前(やまさき)に逃れた。大友皇子はそこで、大津京を眼下に見ながら自害した。

7月24日
 諸将軍筱浪(ささなみ)に集い、さらに罪人を追捕した。

7月26日
 将軍たちは不破の宮にいたり、大友皇子の頭を大海人皇子に献じた。

9月8日
 不破を出発した大海人皇子は吉野からの道を戻り飛鳥に向かった。

9月15日
大海人皇子は飛鳥の嶋宮(しまのみや)に入った。

 673年2月27日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位(天武天皇)した。

 以上、「岩波」で25ページにおよぶ「壬申紀」を駆け足でおさらいしました。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1255-9c2fbef4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック