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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(34)

壬申の乱(6):度重なる吉野行幸はなぜ?


 吉野ヶ里と言えば弥生時代の話で、3世紀の遺跡と言われている。しかしその後、吉野ヶ里に堤土塁跡があることがわかった。鎮西山から南に延びる八藤(やとう)丘陵と二塚山丘陵との谷間をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、現在では中央部に切通(きりとおし)川が流れ、東西に分断された格好で残存している。東西長約300㍍。東側で幅が10~15㍍。高さが15~2㍍。西側で幅34~40㍍、高さ4.5㍍という大規模な遺跡である。

調査の結果、7~8世紀頃のものと考えられている。築成目的に関しては、切り通し川を塞ぎ止めていることから、農業用水を蓄えるための潅漑施設説、外敵の侵入を防ぐための防衛施設説、両者の併用説などがあるが謎が多い。いずれにしても古代においてこのような大規模かつ高度な土木技術が存在したことを示すとともに、その歴史的背景を研究する上でも非常に重要な位置を占める遺跡である。

 この遺跡を実際に観察して、古田さんは次のように述べている。

 叩き締める「版築(はんちく)技法」で築かれており、西側の切り通し断面でその状況がよく観察できる。それで先日行ったときには、その切り通し断面の「版築技法」をしっかり観察して来ました。

 時期については判別できないが、版築の技術が基山町関屋土塁や佐賀市帯熊山神護石の土塁のそれと類似している点等から7~8世紀と考えられる。つまり神籠石と同じ技術で作られている。いわば神籠石と神籠石を結ぶ性格を持っている。



 神籠石(こうごいし)については、おおよそ次のようなことが明らかにされている。それらは古代の軍事要塞(山城)跡で、その石群は、四つ(以上)のグループに分けることができる。
(A)有明海と長崎・大村・佐世保・伊万里湾等に対するもの
(B)太宰府を中心とするもの
(C)筑後川(上・中流、生葉郡等)周辺
(D)関門海峡の両側


 吉野ケ里はAグループの結節点(軍事中心)にあたる。Aからは白村江に直航できるが博多湾からは対馬海流に逆行する難点があり、「白村江の戦い」に参戦した軍船はA地域に待機させたものと、古田さんは考えている。その仮説を証明するものとして、古田さんは『日本書紀』の中の天智3、4年の記事に注目する。『日本書紀』では「白村江の戦い」を663年(天智2年)としているから、天智3年は「白村江の戦い」の翌年ということになる。

天智三年・・是歳、対嶋・壱岐嶋・筑紫國等に、防(ぼう)と烽(ほう)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名なづけて水城(みずき)と曰ふ。

天智四年・・・秋八月に、達率(だちそち)答ほん[火+本]春初(たふほんしゅんそ)を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留(おくらいふくる)・率憶四比福夫(しひふくふ)を筑紫國に遣して、大野及び椽き、二城を築かしむ。耽羅(たむら)、使を遣して來朝り。


 「防」は、防人の立てこもる拠点であり、「烽」は狼煙(のろし)を挙げる所だ。この記事は全く真実性の全くないおかしな記録である。「防」・「烽」・「水城」は明らかに軍事的な目的を持った施設である。対馬と壱岐の「防」と「烽」を置くという目的は、明らかに朝鮮半島・大陸に仮想敵国が居るという前提に立っての軍事的要塞だ。「水城」を作るというのも攻め込まれたときの備えだ。「白村江の戦い」で大敗して、唐の占領軍あるいは進駐軍が筑紫に来ている。その占領軍が来た後に、唐や新羅を仮想敵国にする軍事要塞を作るという馬鹿げたことを記録している。

 倭国が「水城」や「防」や「烽」などを築かずに、いきなり白村江の海へ戦いに出かけていった、そんな馬鹿なことはありえない。当然、海上での戦いは、色々な軍事的措置を取ったうえでの、最後の雌雄を決着する戦いだ。そう考えるのが常識である。何もせずにいて海で負けました。負けた後に軍事要塞を作りました。そんな馬鹿な話を、ヤマト王権一元主義者以外に、いったい誰が信じるだろうか。これらの記事は明らかに「白村江の戦い」以前の記事である。そう見ない方がおかしいのだ。この結論には科学的裏付けがある。

 現在では放射性炭素による年輪年代測定法がもっとも信頼すべき年代測定法と言われている。それによると「考古学の編年は従来より100年ぐらいさかのぼらなければ年輪の示す実体と合わない」という報告が出されている。このことを古田さんは繰り返し指摘している。しかし、従来の論者たちはそれを無視している。それを認めてしまうと、自分たちの理論が音を立てて総崩れになってしまいかねないことを恐れているからだろうか。古田さんは次のようなエピソードを語っている。

 対馬金田城山城跡自身の放射能測定も、7世紀から6世紀になるという記事が現地の新聞に報道されたことがある。しかし東京や近畿の新聞は無視した。やばいというか『日本書紀』と合わないから。それで朝日新聞の内倉さんが、水城の放射能測定がどうも『日本書紀』の言っているような7世紀後半ではない。放射能測定が6世紀前半から7世紀前半となる記事を書いて最後にデスクに止められてアウトにされた。そういう悔しがっている話を何回も聞きましたが。とにかくデスクとしては水城の成立年代が、『日本書紀』と合うと教育委員会を初め今まで全部書いてきたのに、合わないと言われる記事は都合が悪い。想像するに思ったのだろう。

 とにかく私から見ると、今までのしがらみや関わりを持っていない私としては、『日本書紀』の神護石や水城の記事は、本来から白村江以前に持ち上げなければ成り立ち得ない記事である。あれを白村江以後に、はめ込んでいることこそ大きな嘘だった。この記事を見ても天智紀が嘘であることは、この問題一つ取っても疑い得ないのではないでしょうか。それが最近の年輪年代測定や放射能測定で、科学的裏付けを得てきた。やはりそうでしたね。そういうことなのです。



 さて、「白村江の戦い」では倭国の船は400隻も沈んだと言われている。合計600隻あるいは800隻といわれる船は、白村江に行く前、どこに集結していたのか。

 博多湾はまずあり得ない。何故かというと、博多湾には鴻廬館(こうろかん)がある。(これも天智天皇の時と言われてきたが、最近の発掘調査によると6・7世紀になる。)外国の使者が何時も来ている。そんなところに600隻もの船が集結すれば、軍事秘密が筒抜けになってしまう。さらにもう一つ、博多湾から済州島までが大変である。対馬海流を逆流しなければならない。済州島から後はよい。1隻や2隻なら行けないことはない。しかし、数百隻もの船が一斉に海流を逆流して行くなどどいうのは、常識的には考えられない。現代の船とは違う。そういう機能的な面でも博多湾はあり得ない。そうするとどこか。

 ずばり、有明海だ。有明海から洋上に出て行けば、目の前が対馬海流。さっと済州島まで行ける。済州島まで行けば、そこから別れて真っ直ぐ進めば北のソウルにも行ける。

 そうすると、神籠石の西の端山(おつぼ)神籠石が武雄温泉にあるが、この位置にある理由が非常によく分かる。武雄は北に行けば伊万里湾へ、東へ行けば左世保湾へ、南へ行けば大村湾・長崎湾、そして西に行けば吉野(ヶ里)。三つの湾をにらむところが神籠石の西の端にあたる。

 この神籠石が山城群の西の端にあることが非常に意味があることが分る。帯隈(おぶくま)山というのが佐賀市。その東が吉野ヶ里。そして高良山。女山(ぞやま)。有明海を取り巻いている一群が有ることは明らかである。その有明海を取り巻いている一群の結節点になっているところが吉野ヶ里。その吉野ヶ里に白村江以前に高速道路(堤土塁)が付けられている。軍船が集結している。そして当然、山城にも軍船にも将軍や防人がいる。全国から防人が集まってくる。その結節点が佐賀県の吉野。

 防人として来た人々は、勝手に好き好きに軍船に乗ったり、神護石山城に行くわけではない。当然集まった防人は一定の所で閲兵を受け、ねぎらいや激励をうけてから役割分担されて任務に就く。高速道路の終点、佐賀県の吉野へ再三九州王朝の天子が行くのは当然なことだろう。この度々の行幸は「持統紀」が指し示すような慰安や祭祀のための旅行ではなく、軍隊閲兵のための行幸だった。

 「持統紀」の吉野行きが、実は九州王朝の天子の吉野(ヶ里)への軍事的目的を持った行幸記事の剽窃であったという驚くべき結論の確かさを、古田さんはさらにいろいろと補強している。私(たち)にとっては古田説が正鵠を射ていることはもう十分納得できているが、そのなかから一つ、最も説得力のある論証を紹介しておこう。

 持統8年(694年)の夏、持統は3回吉野に行っていることになっている。その中の一つの記事中に次の一文がある。

夏四月・・・庚申(かのえさるのひ)に、吉野宮に幸(いでま)す。・・・丁亥(ひのとのいのひ)に天皇、吉野宮より至(かえりおは)します。

 問題は「丁亥」という日付。持統8年(694年)の夏4月には「丁亥」という干支(えと)の日が存在しない。注釈者たちは困ってしまった。そこで例によって、原文改定をやったり、4月を別の月に比定したり、いろいろと姑息な「手直し」を考えているが、全てペケ。

 古田さんは厳密な史料批判をした上で論を進めているが、その部分は省略して結論だけを記載しよう。

 上記の事例以外の「持統紀」に現れる干支による年・月・日は全部うまくあてはまっている。ここだけどうして間違っているのか。持統の吉野行きの記事が「白村江の戦い」以前の九州王朝史料を盗用したものであることを知っている私(たち)にとっては、次のように考えるのが自然な理路だ。つまり元の史料に「丁亥」とあった。それがそのまま、うかっりミスで生き残った。うっかりミスで元あった正しい干支がここにだけ姿を現した。

 では「白村江の戦い」直前に、これに当たる干支が存在するだろうか。古田さんは、660年4月24日が「丁亥」であることを突き止める。(次の引用文中にある『三正綜覧』とは、1880年に日本で刊行された暦の対照表です。また「顕慶」「龍朔」は唐の高宗李治の時の元号です。)

 『三正綜覧』(内務省地理局編纂)により顕慶5年(660年)に有りました。660年、この年の4月が、大の月で「辛未」が一日です。それを『大日本百科辞典小学館(ジャポニカ)の干支五行配合表』で見てみますと、「辛未(8番目)」が1日ならば、17日(24番目)が「丁亥」となる。そこに「丁亥」が出てくる。ここだと問題なくあり得る。無くて困っていたものが決まってきた。

 それで顕慶5年(660年)を持統8年に当てはめて、9年・10年・11年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統11年4月14日に成っていました。それが龍朔3年(663年)4月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶5年(660年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統11年4月14日は、実際は龍朔3年4月14日ということに成るわけです。ところがその年の8月か9月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の3・4カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。これは分かりますよね。花の吉野と違いますから。吉野へ行った目的が軍事目的で、神護石や軍船に来る防人を閲兵する為に行っているわけです。白村江の戦い以後も行っていたらおかしいわけです。ところが白村江の戦いの4カ月前でストップしている。非常にリアリティがある。それでやはり、この吉野行きは、本来の姿は佐賀県吉野である。そういうことを実は確信したのは、この丁亥問題である。



 全く見事な論証だ。これほど堅固な論理によって史実が解明されても、ヤマト王権一元主義者たちは知らんふりを決め込んでいる。

 思えば奇しくも、『日本書紀』の編者はミスという方法で、自らの手で抹消したはずの、非常に貴重な史実を書き残しておいてくれたことになる。

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