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《「真説・古代史」拾遺編》(33)

壬申の乱(5):「持統紀」にもあった盗作記事(2)


 次に古田さんが取り上げたのは持統天皇の吉野行幸記事である。この記事も謎だらけである。まず、その回数。「持統紀」によればわずか9年の間に天皇として、なんと31回も吉野に行っている。譲位した後では太上天皇(だじょうてんのう)として1回だけ行っている(続日本紀)。<持統年 回数 滞在期間>という形で列挙してみる。

3年 2回 4日間・もう一回は不明
4年 5回 前3回は不明・最後は4日間
5年 4回 8日間・7日間・10日間・8日間
6年 3回 5日間・20日間・8日間
7年 5回 8日間・7日間・10日間・5日間・5日間
8年 3回 不明・8日間・不明
9年 5回 8日間・4日間・9日間・7日間・9日間
10年 3回 11日間・7日間・9日間
11年 1回 13日間
(8月1日禅位)
大宝元年 1回 12日間

 この異様な吉野行きについて、従来は「これは当人の趣味の問題だ。」「権力者は、しばしば気まぐれなものだ。」ぐらいの感覚で、見すごしてきていた。あるいは、「何等かの理由で、持統天皇が吉野を愛し賜うたからだろう。」とか「吉野の風物、たとえば桜や水辺の風景を愛されたがらだろう。」、「吉野の水神に対する信仰が厚かったのだろう。」いったような説明を工夫する論者もいた。古田さんは31回の吉野行きの行われた月を調べて、それらの説に疑問を呈する。

1月3回
2月2回、潤2月1回(2月、計3回)
3月2回
4月4回
5月3回
6月3回
7月3回
8月4回
9月1回
10月3回
11月1回
12月2回

 吉野と言えば桜。吉野の桜が盛んなのは、旧暦で言えば、3月の中旬から下旬である。ところが31回中、3月は2回しかない。後の行幸は桜のない季節に行っている。

 さらにおかしいのは、7回ある滞在期間不明の行幸。出立の日だけで、帰りの記録がない。ならば日帰りと考えればよいだろう。実際に藤原宮から吉野への山道を歩いた人の話では日帰りの不可能ではないということだ。しかし、持統天皇はハイキングに行くわけではない。行宮(あんぐう 仮宮のこと)があるのに、強行軍でその日の内に急いで引き返す必要はない。やはりおかしい。

 以上のように、持統天皇の吉野行幸は謎に満ちている。非常におかしい。この謎を解く手がかりが、またまた『万葉集』にあるのだった。

『万葉集』第36~39番歌

吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌 (36番)
やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
反歌(37番)
見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

(38番)
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内(かふち)に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一に云ふ][黄葉かざし] 逝き副ふ 川の神も 大御食(おおみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌(39番)
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかを知らずといへり。


 詞書きは、これらの歌は吉野で柿本人麻呂が持統のために作った、と言っているが、これは歌の内容と相容れない。


 36番歌と38番歌には、大王と書かれている。この大王という言葉は、ある領域を支配する王を意味する。大王は天皇を意味しない。

 吉野の宮滝には「河内」という地名はない。「激つ河内」と呼ばれるところはあるが、それは川の瀬であって地名ではない。

 宮滝には滝がない。「夢のわだ」とよばれる3メートル程度の水落(みずおち)があるが、滝と呼ぶには恥ずかしいほどチャチなものである。

 吉野川は山の中の上流であり、「激つ河内」と呼ばれるところから船は海に出発できない。

 古田さんはこれらの問題点に対して緻密な論証をしているが、私(たち)としてはこれで十分だろう。結論を書き留めれば、この歌の舞台は「大和の吉野」ではない。真の舞台は「肥前の吉野」。歌に「吉野川」とあるが、これは現在の嘉瀬川(かせがわ)。上流に「吉野山」があり、下流領域には「字、吉野」やあの有名な「吉野ヶ里」がる。舞台をここにとれば、歌は生き生きとよみがえり、全てがぴったりと収まる。



(上記結論の詳しい論証を知りたい方は 「この歌は吉野で持統に奉られた歌ではない」 を参照してください。)

 一連の歌の背景は次のようになる。(論文「この歌は吉野で持統に奉られた歌ではない」からの抜き書きです。)  人麻呂は大王に付き添ってここに来た。最初彼らは、古湯温泉へ来て川舟を並べて遊び下った。それから彼らは、雄淵の滝で、饗応の櫓を建てて楽しんだ。それから熊川古城に上がって、雌淵・雄淵を見ながら、国見を行なった。そして鮎瀬に出て鮎漁を楽しんだ。それで最後は船に乗り、嘉瀬川を下って(筑後川と合流し)有明海に出た。

 さてそうすると、前回の「第44番歌の注」のときと同じ論理で、上記の一連の歌の注に登場する天皇、頻繁に吉野に行幸している天皇は持統ではなく、九州王朝の天子ということのなる。「持統紀」の吉野行幸の一連の記事は、九州王朝の天子の行跡を盗用してはめ込んだものでだったのだ。

 ではその天子は、なぜかくも頻繁に吉野へ行幸したのだろうか。

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