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《「真説・古代史」拾遺編》(31)

壬申の乱(3):中皇命の活動範囲


 長歌(第3番歌)を前回のように解すると、反歌(第4番歌)に現れる地名関係も明快に解くことができる。

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
(原文)
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野


 「岩波」は原文の「内乃」を「宇智の」と表記しているが、この歌の舞台をはなから奈良と決めかかっているためにこのような解釈をしてしまう。古田さんが解く正解は次のようである。

 「内乃」。太宰府の東側の山一つ越したところに「内野(うちの)」がある。その近くに「大野」もある。太宰府の側の大野城の「大野」も有名だが、それ以外に大野城の山一つ越えたところに「大野」がある。その間に「馬敷(ましき)」がある。「内野大野に馬並めて・・・」と全部揃っている。さらに前回指摘されたそうに「那珂(なか)」もある。舞台を太宰府にとれば全部地名がそろっている。

 これだけ揃っていて、わたしが屁理屈で会わせられるはずはない。実体がここで作られたからである。そう考えるのが筋ではないか。奈良県で作ったと考えると、中皇命を女性の名俳優にして、両性具備の人物を演じなければ成らない。また「中弭」をひっくり返して「金弭」と原文改訂を行わなければならない。そして中皇命は歌だけ献上させる役という変な出方。『万葉集』の他の例にないような変な役割を割り当てなければならなかった。そのようなことが全部一掃されるのが、わたしの理解でございます。

 以上述べたことに対し、古田の言うことは理屈はその通りだが、ちょっと付いていけない。そういう意見もあると思う。とくに頭の中に深く入った知識からは付いていけない。頭の良い方は特にそうであると思う。頭の中に今までの知識が深く入っています。



 そこで古田説の信憑性をさらに確定的にする証拠がある。『万葉集』にもう一度「中皇命」が登場している。しかも歌人としてである。第10,11,12番歌である。

中皇命(なかつすめらみこと)、紀温泉(きのゆ)に往(いでま)しし時の御歌

10
君が代も我が代も知るや磐代(いわしろ)の岡の草根をいざ結びてな

11
我が背子は仮廬(かりほ)作らす草(かや)なくば小松が下の草(かや)を刈らさね

12
我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の珠(たま)そ拾はぬ

或は頭に云く、我が欲りし子島は見しを
右、山上憶良大夫の類聚歌林(るいじゅうかりん)を檢(かむが)ふるに曰はく、天皇の御製歌(おほみうた)云々


 この歌も専門家には悩みの種の歌だった。一番の悩みの種は敬語の問題である。

 第11番歌には尊敬の助動詞が二回出てくる。「仮廬作らす」の「す」が尊敬の助動詞。「草を刈らさね」の「さね」が尊敬の助動詞。(「さ」が尊敬の助動詞。「ね」は接尾語と考えてもよい。)

 ところが第10番歌、第12番歌には敬語がない。尊敬の助動詞がない。

 この現象も通説に従えば、うまく解釈できない。中皇命が舒明天皇の皇后あるいは間人皇后など女性であったとすれば、相手方は夫の舒明天皇となる。すると自分より目上と考えられる天皇に対して敬語抜きで歌を作るのはおかしいとなるしかない。第11番歌には二回も敬語を使っているのに、その前後では敬語の使用を忘れてしまったとなる。専門家としては頭をかかえざるを得ない。そこで斉明天皇が天皇の代作をしたという「代作説」がでてくる。代作にして敬語抜きを合理化するという姑息な解決を試みている。

 しかし現実は三つの歌があって、一つの歌だけ敬語があって他はない。それが事実であり、それが説明できない説は無効である。

 通説論者を困らせていることがもう一つある。ここに出てくる地名に困っている。「紀温泉」というのは和歌山の白浜温泉。次の第10番歌の「磐代」は、白浜からちょっと西よりに寄ったところに、有馬皇子が作った有名な歌に出てくる「磐代」がある。前書きと第10番歌は不都合はない。

(参考:有馬皇子の歌とは第141番歌「磐代の濱松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」)

 第11番歌は地名がない。問題は第12番歌の「野島」と「阿胡根の浦」。

 「野島」は白浜温泉の近く和歌山県御坊市の字地名に「野島」というのがあり、そこだろうと言われている。しかし残念なことに、ここは海岸に面していない。さらに、「我が欲りし野島は見せつ」(どうしても見たいと思っていた野島を見せてくれた!)と歌っているのだから「野島」はすごいところだったはずだ。しかし、そんな名所旧跡でもない。

 次の「阿胡根」。この地名がない。本居宣長がアコヤ貝が取れた所を、そう言うのではないかと言ったので、時折その説を採用する人がある程度で、だれも説明できない。「岩波」の頭注は「所在不明。野島付近の海岸であろう。」と、お手上げを宣言している。

 さらに、「或は頭に云く」の方の「我が欲りし子島は見しを」(見たい!と思った子島はもう見た。)。この「子島」についても「岩波」の頭注は「不明」としている。

 以上のような従来説では説明のしようがない諸問題が、「中皇命は九州王朝の天子である」という古田説にのっとれば、すんなりと解決される。

 当然中皇命の出発地は博多太宰府。船で出発すれば、当然瀬戸内海を通って行く。まず「子島」というのは当然各地にある。数ある「子島」の中で最も有名なのは「吉備の児島(こじま)」である。そこにはすぐ近いところに吉備津神社があり、吉備の大宰(たいさい)が居る。中皇命は吉備の大宰に会いたかった。「私は吉備の児島に用事があった。しかしもう会うことができた。」これで「子島」は解決する。

 次のポイントは「野島」、明石海峡を人麻呂が歌った歌がある。『万葉集』第三巻「柿本朝臣人麻呂の覊旅(たび)の歌八首」の中の第250、251番歌。

玉藻刈る敏馬(みるめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ

一本云
処女(をとめ)を過ぎて夏草の野島が崎に廬(いほり)す我れは

淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す


 「野島」が三つ出てくる。この「野島」は明石海峡の淡路島の北端である。淡路島の北淡町、そこの字地名にも野島がある。中皇命は明石海峡ファンで、ぜひ奥さんに「明石海峡を見せたい。」と思って、太宰府を出発して来た。古田さんはこの「野島」について「私も中皇命と同じくして、独身時代神戸の須磨離宮道に住んでいた時期があるのですが、明石海峡に通って飽きることなく、何時間も夕日の落ちる姿を眺めていた記憶があります。」と回顧している。すばらしい景観のようだ。

 中皇命は次は白浜へ行ったり、磐代へ行ったりしている。そのあと「阿胡根の浦」に行く。これは三重県の英虞(あご)湾。中皇命は「岩代の岡の草根をいざ結びてな」と詠っている。「草根」に「根」という接尾語を付けている。そうすると「底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」も「阿胡根」にも「根」という接尾語を付けている。従って、固有名詞部分は「阿胡(あご)」であり、「阿胡根の浦」は三重県の英虞湾ということになる。

 出発点は太宰府博多湾(もしかしたら有明海かも)。到着点は三重県の英虞湾。このように考えると、所在地不明というようなことはなく、地名関係は非常にスムースに理解できる。旅の進行関係も非常にスムースに理解できる。

 敬語の問題の解答については、講演記録にはその言及がない。『古代の十字路―万葉批判』で詳述しているらしい。その本はいま手元にないので後ほど確かめることにして、取りあえず私なりの説明をしておこう。

 第10番歌と第12番歌は最高権力者・中皇命の作歌だから、当然敬語がなくて当然。それに対して第11番歌は「我が背子は・・・」とあるから女性の作品である。奥さん(皇后)または恋人の詠んだ歌である。「中皇命、紀温泉に往しし時の御歌」という詞書きから、全部が中皇命の詠んだ歌である必要はない。全てが中皇命の詠んだ歌なら詞書きは「御製歌」となるべきだろう。

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