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《「真説・古代史」拾遺編》(30)

壬申の乱(2):中皇命って誰?


(以下は古田さんの論考の紹介です。教科書は講演記録「壬申の乱の大道」、東洋書林版『壬申大乱』。)

 『万葉集』にはヤマト王権一元主義者には解くことのできない謎がたくさんあって、万葉集の研究者たちを悩ましている。その中の一つが「中皇命」。この人物が初めて登場する歌は3・4番歌で次の通りである。(引用歌はすべて「岩波古典文学大系」に準拠。以下「岩波」と略す。)

天皇、宇智の野に、遊猟(みかり)したまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)の間人連老(はしひとむらじおゆ)をして獻らしめたまふ歌

やすみしし 我が大君の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い寄り立たしし み執(と)らしの 梓の弓の 金弭(かなはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり

反歌 たまきはる宇智の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野

注1:「金弭」は原文では「奈加弭」。
注2:後の方の「み執らし<の 梓>の弓の」の「の 梓」の部分の原文は「御執<梓能>弓之」。

 この三番歌は斉藤茂吉が『万葉集』最高の秀歌であると評価した歌だ。ところがこの歌には問題が多い。

 まず詞書きに登場する「中皇命」が何者か分からない。「岩波」の頭注には「間人皇后。舒明天皇の皇女、天智天皇の妹、天武天皇の姉、孝徳天皇の皇后。天智四年(六六五)没。万葉初期の有名な歌人。なお中皇命を斉明天皇とする説もある。」と書いてあるが、どちらの説も推定しているだけで決め手がない。また、中皇命の役割が分からない。中皇命が間人連に歌を献上させるためだけに登場している。しかし『万葉集』には歌を献上させるだけに登場する人物は他には全くない。歌を献上する相手の天皇は舒明天皇だが、彼が狩りを行った。これもおかしい。

 歌の内容にもおかしなことがある。

我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし

 「大君は狩が好きで朝には弓矢を大切そうに撫でている。」この部分は男のしぐさとしてよくわかる。すると、「夕には い寄り立たしし」という言葉が変だ。この言葉は「女性が、男の人や男の人の持ってい るものに寄りそう」といった意味で、『万葉集』の中では女性の表現としてしか出てこない。つまりこの人物は、朝は男性的な行動をし夜は女性的な行動をしている。まるで両性兼備の人物である。もちろん、このような両性兼備の人物は『万葉集』では他には例がない。しかし今までどの専門家も変だと言ったことがない。

 次は「梓の弓の 金弭の 音すなり」の「金弭」。『万葉集』にはたくさんの写本があるが、すべての原文で「奈加弭=中弭」である。この「奈加」を入れ替えて「かな=金」と、してはならない原文改訂をしている。「岩波」は「吉永登氏説」と脚注を付けている。この説を望ましいものとして採用しているわけだ。

 なぜこんな勝手な書き換えをしたのか。「中弭」では困るからだ。なぜ困るのか。「弭(ハズ)」というのは弓の上と下の端のことである。だから「中弭」では意味不明となる。だれもうまく説明できなかった。それを万葉学者の吉永登氏が見事に解決した。『全写本が間違っているのだ。「ナカハズ」ではなく「カナハズ」なのだ。「金弭」なら金属製の部品が上と下の端についているということで、何ら不思議はない。』と。

 さて、これらの問題点を古田さんは、以下のように見事に解明している。

 まず「中皇命」。

 「皇」は皇帝の「皇」である。第一権力者である天子を意味する。「命(みこと)」は、大国主命など亡くなった人によく使われるが、生きている人に使う場合は最高の倭語である。「皇命」と揃えば最高の権力者、つまり天子の呼び名と考えるほかない。

 次に「中(なか)」は何か。これは地名である。額田王(ぬかた)が額田出身の王を表すように、本人の生まれた所の地名を取って呼ぶことは珍しくない。では「中」はどこか。博多に那珂川があり、有名な中州があり、那珂郡那珂村もある。博多の真ん中から北にかけて「中」という地名がある。そこの出身であるから「なかつすめらみこと」である。

 彼は弓矢が好きなようだが、その愛用の弓矢は「中」で作られた弓矢、当時の先進地帯である「那珂=中」で作られた弓矢ではないか。だから、今の博多ラーメンなどと同じように地名を付けて「奈加弭 中弭」と呼ぶ。これで専門家が悩んでいたことが一挙に解決する。

 次は両性兼備の問題。

 定説では「我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之」という原文を「我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし」と読んでいるが、この読みが間違っている。古田さんは「朝庭=ちょうてい」と解している。次のように詳述している。
 大王が居るところを朝庭とは言わない。天子のいるという特別な場所のこと朝庭という。その特別な場所を単なる表音で使うとは考えられない。使ったから仕方がないと言う声もあるが「には」には色々ある。「には 尓破」等を使って書けばよいし他にもいろいろある。それをわざわざ古代において、うっかり大それた「朝庭」という字を使いました。私のミスです。そういうことは許されない。「朝庭(ちょうてい)」という字を使っている以上、天子の居るところを指している。こう見なければならない。

 するとこれを私は「朝庭 みかど には」と読むと考えます。「朝」一字を、「みかど」と読んでいる例もある。「帝=朝庭=みかど」とは当然天子のことである。

 次に「夕庭」という言葉が出てきていますが、私はこれを「夕庭=后(きさき)には」と読むことを提案する。これは奥さんと考えるわたしの新案特許です。

 「朝庭には」=「帝(みかど)には」は男の方である。これに対して「夕庭には」=「后(きさき)には」、后のことを洒落て、そう表現をした。



 古田さんの新案特許によると、歌の意は次のようになる。すなわち「弓好きの天子が弓矢を立てて撫でて喜んでいる。そばで后がそういうりりしい帝に寄り添っておられる。夫婦相和して、男は男らしく、女は女らしく、朝にも夕べにも、仲むつまじく居られる。」

もちろん、歌を作ったのは間人連であり、この歌を作らせたのは中皇命であり、この歌の主人公も中皇命ということになる。

 『「万葉集巻三の第304歌」をめぐって』で明らかにされたように「やすみしし 我が大君の 朝には」の意味は「我が大王の仕え奉る帝には」という意味であり、「我が大王」は舒明天皇である。舒明天皇は間人連を伴って、大和から太宰府(朝庭)にやって来ていた。この歌は舒明天皇のことを歌ったのではなくて、中皇命のことを歌っている。我が舒明天皇のお仕えする中皇命は夫婦合和して仲睦まじくおられる。そういう歌と理解できる。『万葉集』の編者がちゃっかりと主従関係を逆転させ詞書きを添えて盗用したために、歌の意味が全く分からなくなってしまったというわけだった。

(参考)

第996回 4月19日:《「真説・古代史」拾遺編》(13):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(1)

第997回 4月20日:《「真説・古代史」拾遺編》(14):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(2)

第998回 4月21日:《「真説・古代史」拾遺編》(15):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(3)

第999回 4月22日:《「真説・古代史」拾遺編》(16):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(4)

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