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500 ロシア革命の真相:番外編(2)
ロシアとスペインを結ぶ2本の糸
2006年5月13日(土)


 ロシア革命とスペイン革命を結ぶ糸が2本ある。スターリンという毒蜘蛛が吐き出した忌まわしくどす黒い糸。闇の中に封じ込まれているが、リバータリアンを結ぶ希望の糸。

黒い糸
 ボルシェヴィキ(ソ連)がスペインにおいても「革命の裏切り者」の役割を担ったことはよく知られている。もうずいぶん昔になるが、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を歯軋りしながら読んだことを思い出した。

 さて、米田さんとバスさんの間で、スペイン革命を取材したソ連の二人の記者の運命が語られている。
 ソ連の記者たちは本国の厳重な検閲体制のもとでスペインの情勢を報じなければならなかった。が、そうしたなかでもスターリンは、スペインへ行って真の革命の実態を目の当たりにしてしまった記者の存在を恐れた。「プラウダ」紙の特派員ミハイル・コリツォフはソ連に召喚された上、スターリンによって粛清されてしまう。そして同じ時期に、やはりスペインを見た「イズヴエスチヤ」紙の特派員で作家のイリヤ・エレンプルグはスターリン独裁下を生き延びている。

 二人の記者の運命を分けたものが何であるかは、この対話では触れられていないので分からないが、スペインの「真の革命」を目の当たりにしてしまったために抹殺されたのは、もちろん、コリツォフだけではなかっただろう。スペインで起こっていた「革命」への視点は闇に葬られていった。

希望の糸
 パスさんの証言。


 コリツオフもエレンプルグも、ソ連の厳重な検閲体制のもとでスペインの情勢を報じなければならなかった。私は1936年のスペインで本当は何があったのかを、一切の制約なしに書いた。あのとき、スペインでは本当は何が起こっていたのか? ほとんどの歴史家たちが無視してきたことを、つまり「革命」の真実を、『ドゥルーティ』という書物を通じて描いてみせたのだ。歴史家たちはおおむね「戦争」のありさまを伝えてきたが、「革命」にはほとんど言及していない。もっともなことではある。革命を実行したのは、われわれアナキストだったのだから。

 ソヴエト・ロシアではアナキストは徹底的な迫害にさらされており、その大半が殺されていた。アナキストには「頭の狂った連中」だとか、「匪賊」といった勝手な烙印が押されてもいた。だが、同時代にありながらも特異な歴史的環境のもとに、スペインではアナキズムがプロレタリアートの圧倒的多数の支持を獲得していたのだった。ポリシュヴイキのロシアでは徹底的に蔑まれていたアナキズムが、だ。

 スペイン革命が連合主義の原理に則り、労働者自主管理の営みを通じて提起した最も重要な点のひとつは、最も有力な集団を構成していたにもかかわらず、スペインのアナキストたちが決して独裁には走らず、革命のさなかにあってもなお他の政治勢力の意向を尊重したこと、他の政治集団の意志の表明を妨げなかったことにある。この点は幾重にも強調しておきたい。



 スペインでも「労働者自主管理」を根幹とした自由社会の建設が試みられていた。これをパスさんは「連合主義の原理」といっているが、「リバータリアン社会主義」と全く同意であることは明らかだ。「真のロシア革命」と「真のスペイン革命」が結ばれるのは必然だ。


米田
 労働者民主主義への回帰を求めた1921年のクロンシュタットの水兵の反乱の鎮圧をもって、ロシア革命の精神は死に絶えた、と評する見解もあります。しかも、その反乱の鎮圧を指揮したのが他でもないトロッキーであったわけですね。その彼も、最後はメキシコで暗殺される。革命を見た人間、いや革命の死をも見てしまった人間は、こうしてほとんど抹殺されていきました。

 20年代の半ば、パリに亡命していたドゥルーデイと友人のアスカーソが、やはりポリシエヴィキのロシアを追われていたウクライナのアナキスト、ネストル・マフノをその安宿に訪ねるくだりは、『スペイン革命のなかのドゥルーティ』のなかでも非常に印象的な場面です。

アベル・パス
 あのころのパリは、世界中からの亡命者たちの坩堝だった。なかには、ファシズムの台頭を嫌ってムッソリーニのイタリアを逃れたアナキスト、カミッロ・ベルネリもいた。1920年代のスペインにはイタリアの独裁者の亜流であるプリモ・デ・リベーラが君臨していたから、もちろんピレネーの南からやって来た亡命者も多かった。そんなスペインのアナキストたちの間では、裏切られたロシア革命の生き残りとして、グリヤイ・ポーレにコミューンを築いた不屈のゲリラ戦士、あのネストル・マフノは半ば伝説的な存在だった。ドゥルーティとアスカーソのふたりがそんなマフノに会いたがっていたというのも、もっともなことだろう。



 ドゥルーティとアスカーソはマフノに会えたのだろうか。米田さんが次のように語っている。


 ドゥルーティらと対面したおり、マフノはレーニンとトロッキーの前にポリシエヴィキのロシアでは自分たちは屈したものの、イベリア半島ではアナキズムが勝利する可能性がある。機会に恵まれれば自分もスペインへ行って武器を取るのにやぶさかではない、と語っています。残念ながらマフノの死によって、その夢は実現されずに終わりますが、ウクライナのアナキストの姿勢には、敗れてなお盛んな、既存の社会秩序・資本主義体制への徹底した抗戦の意味が込められていたように見受けられます。

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