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《「真説・古代史」拾遺編》(29)

壬申の乱(1):近江遷都


 今回のテーマは「壬申の乱」です。

 古代史学者の間では、『続日本紀』の記述は史実として信頼できるというのが定説になっているようだ。さらに『日本書紀』の最後の三編「天智紀」「天武紀」「持統紀」は信頼できると、おおかたの学者は考えているらしい。試みに、図書館へ行って、いわゆる学者さんの著書で「壬申の乱」を扱っているものを何冊かくってみたが、どれも大筋は『日本書紀』の記述にそったものであった。しかし、「天智紀」「天武紀」「持統紀」もそのまま信じることのできないしろものである。その一端は既に 「白村江の戦」 で、私(たち)の知るところである。

 さて、九州王朝(倭国)の王・薩夜麻(さちやま)が率いる倭軍が白村江の戦いに惨敗したのは662年(「天智紀」では663年)のことであった。薩夜麻は唐・新羅連合軍の虜囚となり、唐軍が倭国(筑紫)に進駐してきた。その激しい戦いが続いている間、倭国では王朝の王族・官僚たちは手をこまねいて何もしなかったのだろうか。

 ここで「近江遷都」が問題となる。「近江遷都」も謎だらけの事案である。

   『日本書紀』によれば、667年(天智称制6年)に、奈良飛鳥から滋賀大津への遷都が行われた。そして翌年正月、即位して正式に王位に就いた。この遷都に対しては、大和の人々の不満は大きかったという。『日本書紀』には、近江遷都に際して民衆の不満がつのり、日夜、不審火が続いたとの記事がある。

(注:「称制」・・・即位の式を挙げずに政務を執ること。いずれ、この「称制」問題も取り上げることになるだろう。)

 なぜこのような遷都が行われたのか。その理由が分からない。通説では、「白村江の戦い」に惨敗したのは近畿天皇家(ヤマト王権)としているので、当然次のような理由付けになる。すなわち、「白村江での惨敗を受けて、唐や新羅など外国勢力の侵入に備えて都を飛鳥から、さらに内陸部へ入った近江の地に移した。」

 「唐や新羅など外国勢力の侵入に備え」るのに、飛鳥より、わずか離れた大津の方に、どんなメリットがあるというのだろうか。私にはさっぱり分からない。

 そこで、次のような説が出てくる。すなわち、「近江遷都が白村江の敗戦を直接の契機として、唐・新羅との緊張した状況のなかでおこわれたことは事実だが、遷都そのものはヤマト王権の意志(宮都防衛のため)でおこなわれたのではなく、それは戦勝国である唐の意向であり要求であった」

 それでは戦勝国(唐・新羅)が遷都を強要する意図はなんだったのだろうか。戦勝国に何か大きなメリットがあったのだろうか。敗戦国をより弱体化するための単なるイジワルといったようなものだったのだろうか。私には理解できない。

 遷都の理由のほかにも、近江遷都についてはいろいろな疑問が提出されている。中にはその存在そのものを否定する論者もいる。

 「当時の政治状況下、大津宮へはやむを得ない遷都であり、天皇が飛鳥から一時的に行幸するだけ、との考え方だったのではないか」。(日本古代史学者・山尾幸久)

 『日本書紀』天武元年5月の条に「近江京より、倭京に至る…」という記事がある。これについて、律令国家と古代天皇制の発足以前に「京」が存在するはずがない。「これは、倭京を『やまとのみやこ』というように、近江京は『おうみのみやこ』であり、今日いうところの『京』の意味ではない」。「古文献の名称にしたがえば、近江大津宮とよぶのが適当のようである」。(考古学者・田辺昭三)  行政組織としての京職と、住人を管理する条坊制がないことなどから、『日本書紀』に記された「近江京」には根拠がなく、明治時代からの研究者の議論で「大津京の存在は否定され」ている。(考古学者・小笠原好彦)

 ヤマト王権一元主義にたつ限りただただ謎は深まるばかりだ。上に、「天武紀」の中の一文「近江京より、倭京に至る…」の「京」の意味を勝手に変えている論があるが、九州王朝(倭国)の存在を知っている者にとってはその文に何の疑問もない。文字通り「近江の京から筑紫の京に至る」で、何の問題もない。言うまでもなく、上の論者は「倭」=「飛鳥」と考えている。

 「近江遷都」は、倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍との激突という国家の命運を賭けた一大決戦を前に、倭国(九州王朝)が緊急避難的に王朝の一部(王族・官僚・民などの)を近江に遷都したと考えれば、上のすべての疑問は解消する。ただし、根拠のない単なる推測では説得力がない。また遷都の年が「天智紀」の記録の通り667年だとすると、遷都が敗戦5年後ということになり、この仮説は年代的にちょっと不都合である。

 ところで、「古田史学の会」の古賀達也さんが「近江遷都九州王朝論」を論じている。古賀さんはその論拠として、15世紀成立の朝鮮史料『海東諸国紀』を用いている。この史料が研究資料として使えるものかどうかという史料批判については本文 「九州王朝の近江遷都 ─『海東諸国紀』の史料批判─ 」 をお読みいただくことにして、「近江遷都」の部分について、以下に紹介する。

 上記史料『海東諸国紀』に次のような記事がある。

「(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。」

 白鳳元年(九州年号)は西暦では661年にあたる。先に見たように『日本書紀』で「近江遷都は667年と記録されている。6年も差がある。古賀さんは言う。

 同書の成立過程を考慮すれば、単純なミスとは考えにくい。やはり、九州王朝が近江遷都し、それにともない白鳳と改元したのではあるまいか。この白鳳元年(661)は九州王朝滅亡の原因となった白村江戦(『日本書紀』では663年)の前々年のことである。国家の命運を賭けた唐との一大決戦を前に、緊急避難的に王朝の一部(大皇弟か)が近江に遷都したとすれば、その理由がよく理解できる。これが従来のように、大和にいた天智達による遷都とすれば、近江では余りにも近すぎて何のための遷都か理由がはっきりしなかった。ところが、唐の侵攻を恐れた九州王朝による遷都と見たとき、その行動はリーズナブルなのである。

 そして、この九州王朝による近江遷都という仮説を導入したとき、あの壬申の乱の性格が、天武と唐による九州王朝近江遷都一派の殲滅戦としての位置付けが可能となるのである。例えば『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からも、両者の協力関係がうかがわれるのである。

「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」

 天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務棕帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したことがうかがえるのである。

 考古学的にも、天智が造ったという近江京の崇福寺の伽藍配置は西に金堂、東に塔という太宰府観世音寺形式である。九州王朝中枢の寺院と同じ伽藍配置を持つ寺院が九州王朝の近江遷都に伴って建立されたと考えれば、これもよく理解できるのではあるまいか。更に、その崇福寺跡から出土した「無紋銀銭」も九州王朝貨幣と見れば、その突出した出土事実を説明しやすいのである。



 大胆で魅力的な仮説である。後に、古田さんによる「壬申の乱」の驚くべき真相解明を取り上げる予定だが、それに対して上の古賀説はどのように呼応するだろうか。

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